ロータリークラブの歴史

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日満ロータリーと日本ロータリー再建

日満ロータリークラブ連合会は 3 地区にわかれていました。名古屋以東の 20R ・ C が第 70 地区、名古屋以西と台湾を加えた 19R ・ C が第 71 地区、 朝鮮、満洲の 3R ・ C が第 72 地区という訳であります。

ロータリーを秘密結社と誤解し、スパイ活動団体と誹謗する軍部の偏見をと くために、東京 R ・ C の松井茂は貴族院において政府の見解をただし、当時 の有田八郎外相から『ロータリーは国際親善に責献している立派な体である』 という答弁を得ましたが、そのころには各地の R ・ C に対する軍部方面の干 渉や圧迫はだんだんひどくなって、例会に憲兵や警察の特高係がしばしば列席 を求めたり、例会の卓話などの内容をあらかじめ警察に届け出ることを要求さ れたりして、クラブも暗い空気におおわれて精彩を失ってしまうことになりま した。

このような状況下にあっても、なおロータリーが本来持っている奉仕の精神 やその理念を良しとなす人達は多く、国際ロータリーを万国赤十字社のような 組職にして、日本では日満奉公会とか、東亜奉公会などの如き名称によって、 連合体の独立自治機関となっては如何?、というような意見が真剣に唱えられ たということであります。

すでにその頃には、ドイツの 42R ・ C 、オーストリアの 11R ・ C 、イタ リアの 34R ・ C が当局の解散命令を受けて消滅してしまっていまし た。

平沼内閣が『複雑怪奇な国際情勢に対処できない』として総辞職するという 時代であります。

米山梅吉が憲兵隊に呼ばれたという風説もあったそうですが、これは間違い であったようです。

R ・ C は 1937 年の理事会で、国際有事中のロータリー活動として『いか なる団においても国際有事の際に、その団のロータリークラブが外国との接触 が不可能となるか、若しくは不適当となった場合には、その国のロータリアン は常にその国の忠良なる愛国者であることを第一義として、国際有事の期間ロー タリーをその国に保存する可能性があり、適当と思われる方策をとる義務があ る』と決定していました。

米山梅吉はじめ日本ロータリーの長老達は、何とかしてロータリーの日本化 を図って、これを存続したいと考えて日満ロータリー連合会という自治独立の 機構を考えたと思われますが、結局は軍部の圧迫によって稔らず日本のロータ リークラブは次々に消滅してしまうのであります。

この『ロータリーの歴史』も、あと 2 回で終らなけれはなりません。軍部 の圧迫に対して、日本のロータリアン達がロータリークラブの存続を画してい ろいろと動いた事蹟や、解散後も例えば東京、京都の水曜会、大阪の金曜会、 神戸の木曜会、福岡の清和会などのように、名称を変えて依然として会合を開 いていたこと、しかもそれが日本の全国各地で同様な懇親社交のクラブとして 存在した経緯など、語らねばならない歴史は枚挙にいとまないほどありますが、 既にその紙面もありませんので、 1949 年 3 月 23 日、即ち、第 2 次世界大 戦集結後、日本のロータリークラブが再び 国際ロータリーに復帰した話題にう つりましょう。

時の R ・T会長は、豪州メルボルン R ・ C のアンガス・ミッチェルであ りました。彼は 1937 年 3 月、国際親善視察団の団長として来日したことの あるロータリアンで、日本の R ・T復帰は時期尚早であるなどの意見のあっ た理議会を説得して実現に漕ぎつけたといわれています。

東京、京都、大坂、名古屋、神戸、福岡、札幌の 7 クラブが先ず認承され て、国際ロータリー第 60 地区と称されました。

ミッチェル会長が後になって語ったところによると、戦争中日本のロータリ アン達が、各地で例会を開いてロータリーの良き習慣を守っていた事 実は、 R ・T理事会から大変好感をもって迎えられたということでありますが、ただ一 つ、 R ・Tの管理から独立して、日本独自のロータリー組職 機構を役立しよ うとの企てに対しては厳しく批判されて、復帰の際このような企てを再び操り 返すことのないように念を押されたということであります。

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