ロータリークラブの歴史

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日満ロータリーと日本ロータリー再建 〜つづき〜

復帰後の初代ガバナーは東京クラブの手島知健であります。その年のうちに 横浜、今治、高知、広島、西宮、徳島、岡山、函館、小樽、熊本、新潟、四日 市、岐阜の 13 クラブが承認されています。

翌 1950 年、東京には 2 つのアデイショナル R ・ C が出来上りました。 東京南と東京北であります。これが日本におけるアデイショナル R ・ C の初 めであります。われわれの福岡西 R ・ C も福岡クラブのテリトリーの割譲を 受けて設立されたアディショナルクラブでありますが、日本で 14 番 目、九州 では初めて設立されたアディショナルクラブとなっております。R ・Tでは日 本ロータリーの復帰といわず『再建』と申しているそうてすが、事務総長であ ったミーンズがミッチェル会長の意をうけて復帰に大変功績のあったことはよ く知られています。彼は勲 3 等旭日章を射られております。

再建された日本のロータリーは、極めて目覚しい発展を遂げました。復帰の 翌々年即ち 1951 年〈昭和 26 年)には、滋賀県大津 R ・ C 以下 22 のクラ ブが一挙に誕生しましたが、その次の年には 17 クラブ、その翌年には 22 ク ラブ、次の年は 35 クラブという風に躍進また躍進、少い年で 30 程度、多い 年には 70 クラブ、80 クラブが 1 年間に誕生するという有様で、1970 年 には 83 クラブが誕生するという記録をつくってしまいました.かくして日本 は現在米国に次いで、クラブ数においても会員数においても、世界第 2 位の ロータリー国になるにいたったのであります。

このような情況の中で、R ・Tは遂に1961 年 5 月に東京において国際 大会を開催することを決定致しました。しかもこの国際大会には世界 74 ケ国 の R ・ C から 2 万 3366 名というロータリアンが参加して、それまでに行 なわれた大会の記録まで破ってしまうという盛況を見たのであります。

この大会の最終日に、印度カルカッタ R ・ C の会員 Nitish . C . Lahar-ry 博士が R ・T会長エレタトとなりましたが、博士は就任挨拶の中 で『払私はアジア人として最初の R ・T会長に適任せられるが、若しも東京 R ・ C の小林雅一が病気でなかったら、この栄誉は彼小林に与えられるもので ある』といったと伝えられております。躍進し発展する日本のロータリーから R ・T会長が逮ばれるという情況が、既に R ・Tの内部に醸されていたとい うべきでありましょうか。

東京の国際大会には、天皇、皇后両陛下のご陸席を賜っておりますが、天皇 陛下のお言葉の中に、ロータリーについて次のようなことが述べられていたと いうことであります。

『ロータリーの会員が創立以来奉仕と友愛とを目標として人種、宗教、 国境 をこえて友好を重ね、国際理解を深める上に多大の寄与をしてきたことは喜び にたえません。今回この大会がはじめてアジアで開かれ、かつ参会者が当初の 予想をはるかに越えたことは、日本に対する関心と友情のあらわれとして誠に 意義深いものがあります。わたくしはこの大会がロータリーの輝かしい歴史と、 高い理想のもとによくその成果をおさめ、会員相 互の友情と信頼がますます深 まるとともに、国際間の協力を推進して、国民ひとしく要望する世界の永久の 平和の確立に費献することを切に希望します。

東京大会の運営に閑しては、参加ロータリアン達から非常な賞賛を得たとい うことであります。

この稿も今回をもって終了致します。75 年のロータリーの歴史をふり返 って書き縁ったつもりでありましたが、冒頭にも述べました通り、これはロー タリーの歴史の骨組みを記したに過ぎません。否、その骨組みも、はんの一部 分を誇ったに過ぎないのではないかと思われます。

ロータリーが今日の組織と機構を作り上げ、今日受け継がれている思想と理 念を整えるには、まだまだ多くの事績を解説する必要があると考えます。特に ロータリーの理念は一人の優れた人物がいて、その人物の頭脳によって考案さ れたものではなく、多数の熱心なロータリアン達の奉仕の実践の積み重ね、そ の試行錯誤を経て造成されたものであります。従って今日行なわれている『四 つの綱領』は勿論『四大奉仕部門』の思想と理念が確立するまでには、ロータ リーの内部の批判と討論が繰り返えされ、またロータリーの外部からの批判も これを素直に受け入れて、幾度かの変遷、激烈なる革新が行なわれたのであり ます。このことはロータリーの創建者、始祖といわれるポール・ハリスが彼の 著書に明確に強調しております。

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