ロータリークラブの歴史

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ロータリーの創立とポール・ハリス  〜つづき〜

19 世紀末のアメリカは、欧州その他から陸続として移住して来るひと旗組 の人達によって、血のにじむような開拓が行なわれ、シカゴのような大都会で は、生きるための人間の修羅場が現出していたというところでありましょう。 1900 年の夏、記禄によりますとポール・ハリスは友人の弁護士の招待を受けて、 彼の自宅に赴くことになりますが、そこでポールは、友人が街を歩きながらあ ちこちの店の主人や通行人達と、親しく談笑している有様を見て大変な衝撃を 受けることになります、彼が驚いたのは、このような大都会の中にもウォーリ ングフトドにあったような、心温まる友情が存在しているという事実でありま した。それまでのポールは日曜日に教会に行く時以外は全く孤独でありました。 彼の述懐するところによりますと、日暮れ時や週末の仕事のない日には、 遥かなる故郷の山や川、少年の頃の思い出に浸りながら、都会生活の無味乾燥 さに気のめ入る思いをしていたということであります。『温い友情に渇いてい たからロータリーの発想があった』と彼はいう。その通りではなかったかと思われます。

生き馬の目を抜くような猛々しい生活環境、人の心を信ずることの困難な対 人関係、愛情の砂漠というべき大都会において、如何にしたら豊かなる愛情に よって結ばれた友情のオアシスを作ることが出きるか、 1900 年から 1905 年 迄の 5 年間は、ポール・ハリスがロータリー運動について思索した時代という べきでありましょう。

この 5 年間に、ポール・ハリスは、大都会の荒廃し、汚濁に満ちた世相を慨 嘆して、世直しの手段としてロータリーの構想をまとめたという見方もありま すが、この見方はロータリー発生後 5 年、10 年を経過する間に生れた構想で あると考えた方がよろしいようで、 1905 年の時点では、温い友情をもって結 ばれるオアシスを作りたい、との考えに専念していたという方がよかろうと思 われます。

さて、いよいよロータリーの発生史を語ることになる訳ですが、実はロータ リーの初期の記録はほとんど失われていたということであります。現在のもの は 6 回目の例会の時間に『昼食をしていた』といって遅刻したチャールズ・ニ ュートンの記録を中心に、初期の会員達の記憶を寄せ集めて、 1924 年に行な われたロータリー史縮纂委員によって、まとめられたものであるといわれてお ります。

シカゴロータリークラブの初代会長が、シルベスター・シールにきまり、幹 事が選ばれ、規約と徽章が決定したのは、前に述べましたように第 3 回目の会 合の時でありますが、当時の会員は 1 年間の限定会員であって、出席のよくな い者は 1 年限りで会員資格をはずされることになっていたということでありま す。この規約は間もなく無くなりましたが、 4 回無届け例会欠席の者は、自動 的に会員資格を失うという規定は、今日もなお生きているのであります。 1906 年オルガン製造業のアル・ホワイトが会長に適ばれました。彼は会員増強のた め友人の弁理士ドナルド・カーターに入会を奨めましたところ、ドナルドはク ラブの規約その他の説明を受けると『親睦と相互扶助だけのクラブでは意味が ない、もっと社会公共のためになることをすべきである』といって入会をこと わりました。そこでアル・ホワイトはその意見をポール・ハリスその他の会員 に話しましたところ、ドナルドの意見はもっともであるということになり、シ カゴ R ・ C の目的になっている『親睦』と『相互扶助』に加えて、第 3 条と して『シカゴ市の利益を推進し、その市民の中に市に対する誇りと、忠誠の精 神を普及すること』の項目が加わり、ロータリーに奉仕の概念が誕生するきっ かけとなるのであります。

---第1章終わり---

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