ロータリークラブの歴史

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ロータリーのルネッサンス始まる

ポール・ハリスは自ら立候補して、シカゴ R ・ C の第 3 代目の会長に就任しました。 1907 年のことです。

この年から 1913 年迄の 7 年間は、ロータリーにとって極めて重大な意義深い時代を迎える訳であります。

例によってポールの著書 This Rotarian age をひもどきますと『ロータリー のルネッサンスの足音は 1906 年の後半頃から聞こえはじめて、 1907 年に入 って、その響はようやく高く、 1913 年まで騒擾は継続した』となっておりま す。何故ルネッサンスが起ったのか?

ロータリーの出発は「親睦」と「相互扶助」が目的であります。親睦とは会 員同志が兄弟、親類のつきあいをすることであり、相互扶助とは会員同志が商 売を助け合うことであります。その頃は未だアデイショナル会員とか、シニア 会員、バストサービス会員などという制度はありません。純粋に一業一会員制 度が確立していたのであります。従って会員同志が商売の上で助け合うことは 自然に行なわれていました。スタティスティシアン(Statistician〉という 係りがあって、会員同志の取引きの記録をとって、例えば洋服屋のハイラム・ ショレイの店から、何某と何某が洋服を何者、何程の価格で買ったとか、シル ベスター・シールの店から石炭を何屯買った。などの記録が残っているほど、 会員間の取引きは厳しく義務づけられていたのであります。つまり会員が増加 すれば会員相互のお得意様が殖えて会員同志の商売が繁盛する仕組みになって いたのであります。

そこへ、前に述べました「シカゴ市に対する公共精神の推進」という目的が 加わって釆たのが契機となって、会員の間に「実利派」と「奉仕派」ともいう べき二つの派閥が出来ることになったのであります。実利派は現状維持派、奉 仕派は革新派といって支障なかろうと思われます。

革新派の頭目はポール・ハリスでありますが、印刷屋のハリー・ラグラスと か、チャールズ・ニュートンなどは「中間派」で両方の意見の衝突を緩和する ために活躍したといわれています。

奉仕派は『社会一般の向上はシカゴだけに限定する必要はない、ロータリー をアメリカ全国に拡大発展すべきである』といって奉仕に加えてロータリーの 拡大を強く主張提唱するようになり騒擾はいよいよ頂点に達することになって 来るのであります。

ロータリーは『親睦』と『相互扶助』がすべてであると主張する現状維持派 と、否、その二つに加えて『奉仕』と『拡大』を推進すべきてあると主張する 革新派の論争が、如何に熾烈てあったかは、ポール・ハリスが『ザ・ロータリ アン』誌の前身である機関誌創刊号に執筆した『Rational Rotariansm 』を読 めば明らかであります。この文章は昭和 52 年度 2 月号の『ロータリーの友』 に掲載されております。

また、ポール・ハリスは『我が希望を理解してくれない友達の冷淡な態度ほ ど、私を淋しく悲しませたことはない』といって、当時の彼の苦境を This Rotarian age にめんめんと書き綴っております。

親睦からロータリーが始まる、ということは今日もなおクラブ運営の基本で あります。しかしながらロータリーの親睦は、共に遊び共に洒を飲むだけで終 る親睦に止まってはならないといわれております。酒席を共にし、遊びを共 にしている間に会員は相互に胸襟を開いて語り合う、それも建て前の話題のみ に終始することなく、お互いが本音を披暦して人生を語り、自らの事業の綻験、 事業の実状を話し合うまで溶け込み合った親睦が期待されているのであります。

そのような親睦の交流があって会員がお互いに『社会生活における幸福は、 他人への思いやりと助け合いにある』となすロータリーの奉仕の心を感じとら なければならないとされているのであります。

かかるロータリーの運動をシカゴだけにとどめるべきではないということで 『ロータリーの拡大』が提唱されたという訳であります。

1908 年に至ってポール・ハリスは再び会長に立候補して第四代目のシカゴ R ・ C 会長に就任しました。

この年ロータリーにとって極めて重要な二人の会員がシカゴ R ・ C に入会 してきました。一人はアーサー・フレデリック・シェルドンといい今一人はチ ェスレイ・ペリーであります。シェルドンはミシガン大学の経済学部経済学科 を優秀な成績で卒業し、書籍販売を職業分類として入会した人物、また、べリー は組織能力、事務才能において抜群の経験を持った人物で、図書館管理者とし て入会して釆ました。

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