ロータリークラブの歴史

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ロータリーのルネッサンス始まる 〜つづき〜

先ず経営学に一家言を持ち、能弁家で情熱漢であるシェルドンが『奉仕』 『拡大』を唱えるポール・ハリスに傾倒して、たちまち会長の信頼を得て、シ カゴ R ・ C の『宣伝拡大委員長』という新たに設けられた機間の責任者に抜 擢されましたが、こゝにロータリー創立以来最初の紛争が起ることになります。

宣伝拡大委員長に就任したアーサー・フレデリック・シェルドンは、早速に 全米各地の状況を調査してロータリーの拡大に自信を得ましたので、持ち前の 熱弁をもってシカゴ R ・ C の会員達を説き廻りました。当時のシカゴ R ・ C は 236 名の会員を擁していたそうですが、親睦と相互扶助の現状維持派の勢 力が強く、猛烈果敢な理詰めのシェルドンの論法は、かえって現状推持派会員 のヒンシュクを買う結果となり、間もなく例会の多数決によってシェルドンは 『宣伝拡大委員長』を罷免されることになってしまいました。その為もあった のかポール・ハリス会長までが、病気を理由に会長の任期中途で辞職するとい う事態に発展してしまいました。

この事実に照らしても、その当時の論争がロータリーのルネッサンス的であ ったことは明らかであります。

ポールの辞めたあとの会長はハリー・ラグルスに決定しました。ラグルスは 印刷屋さんでポールの友人です。入会もポールの紹介という関係ですが、中間 派の立場をとっていたということであります。彼はロータリーに歌をうたう習 慣を持ち込んだ人物です。会員の論争が激しくなってくると『諸君!歌をうた おうではないか』といって自ら音頭をとって、唄い始めたということですが、 それが激論を緩和する役目を果して、会員の親睦を取り戻すのに大変効果があ ったと伝えられています。

ラグルスは 90 才に近い長命で晩年は米国西部のサンフランシスコ R ・ C やロスアンゼルス方面の沢山の R ・ C の名誉会員に推薦され、卓話などに招 かれていたということですが、1959 年 10 月 23 日にキャシードライル・シ ティ R ・ C の卓議に出席する途中で死去したと伝えられています。

ラグルスはシカゴ R ・ C の会長になったもののポール・ハリスとの友情を 失った訳ではありませんので、同じ中間派のチャールズ・ニュートン(第 6 回 例会の時昼食をして遅刻した人物〉などと相談して『宣伝拡大委員会』の存続 を決めて、委員長にチェスレイ・べリーを起用しました。

チェスレイ・べリーは前にも紹介しました通りの組織、事務能力に優れた才 能をもった人物ですから、シカゴ R ・ C の現状をつぶさに検討して、ロータ リー拡大に専念する別個の機関を設立することを思い付き、ポール・ハリスな どともひそかに相談してその計画を推進しました。この機間こそ国際ロータリー 中央事務局の前身である『全米ロータリークラブ連合会』となる訳であります。

ハリー・ラグルスは 1909 年から 1910 年まで会長としてシカゴ R ・ C の 運営に当り、会員の結束と融和の為に大活躍をしますが、一方ロータリーの拡 大の方はポール・ハリスやアーサー・フレデリック・シェルドン、フレツド・ H ・ツイード〈初期に入会し、健康で柔和、よく人を惹きつける驚くべき魅力 を持った偉丈夫とポールの人物評にある人物〉その他奉仕と拡大に熱意を持っ た会員達の力によって、米国各地に続々と R ・ C が創設せられて、ついに 1910 年シカゴ市で開催された『第 1 回全米ロークリークラブ連合会』の際に は、 16 の R ・ C から代表が出席して大いに気勢を上げることが出来たので あります。

シカゴ、ボストン、カンサス・シティ、ネブラカス州のリンカン、ロスァン ゼルス、ミネアポリス、ニュー・オルリンズ、ニューヨーク、オークランド、 ポート・ランド、セント・ルイス、セント・ポール、サンフランシスコ、シア トル、タコマ、バッファロー以上 16 の R ・ C がそれであります。シカゴ R ・ C とは別個のロータリーの共同組織を作って、シカゴ R ・ C に巻き起ったゴ タゴタを回避したということはチェスレイ・べリーの慧眼であったといわれて います。ポールが彼の著書の中に記して、

『私をロータリーの設計者となす人があるならば、チェスはその施工者とな るべき人だある』

といっているのは正にこの辺の事情を語っているというべきてありましょう。

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