ロータリークラブの歴史

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ロータリーは遂に日本に来た

今まで記述して来ましたのは、国際ロータリーの 75 年に及ぶ活動の、 ほんの一部分であります。ロータリーの歴史の骨格だけを説明したに過ぎません。 ロータリーにはまだまだ多くの重要な事額がありますし、その奉仕の業績は極 めて豊富てあり、多彩であります。従ってそのすべてを解説するためには、今 までの数十倍、否数百倍の紙面を必要とし、これを書籍に編集するとすれば一 冊を 1000 頁と仮定しても、数十巻あるいは数百巻を要するのではないかと思 われます。

残された紙面も僅少となりましたので、これから日本ロータリー発展の歴史 を調べることにいたしましょう。

日本人として初めてロータリアンとなった人は福島喜三次であります。彼は 米国テキサス州ダラスに参った三井物産の子会社サウザン・コットンという会 社の支配人であった時、自分の会社の独乙人ウイリアムスという人物の紹介で (或はアデイショナル会員として〉ダラス R ・ C に入会しております。入会 のたしかな年月日は明らかでありませんが、福島は 1919 年に東京の本社え転 勤を命ぜられており、紹介者のウイリアムスは第一次世界大戦に際して、米国 が独乙に対して宣戦布告を行った 1916 年頃に帰国したといわれていますから、 福島のダラスクラブ入会はそのあたりであったと想像されております。福島は 日本に帰国するに当り、ダラス R ・ C 会長の推せんもあって国際ロータリー から、日本にロータリークラブを創設する役目を仰せつかりました。今でいう 特別代表を依嘱されたということでありましょう。

東京に帰った福島は一応クラブ創立について動いてみましたが、帰国挨拶廻 りなどで時間を費し、また三井物産における彼の立場からみて思うよぅに進ま ないので、ダラス時代に知己を得た三井銀行常務取締役であった米山梅吉に会 って、ロータリークラブ創立について、その斡旋役になって戴きたいと願い出 たところ、米山はこれを承諾したといわれています。

米山は 1917 年日本から米国に派適された、目賀田男爵を団長とする財政調 査団の一員として渡米した際に 1918 年 1月にダラスに立ち寄りましたが、そ の時三井系列の会社にいる福島喜三次を識り、ロータリークラブの話なども話 題に上ったといわれています。

一説では福島のゲストとしてダラス R ・ C の例会に出席したとも伝えられ ます。他人の為に尽すことを喜びとする米山の人と成りから考えて、ロータリー に対して相当強い関心と興味を持っていたのてはないかと思われます。

東京にロータリークラブを作るには期限が切ってありました。それは 1920 年の 6 月末日までということでしたが、それまでに事は運ばなかったので、福 島喜三次は R ・T〈当時は国際ロータリークラブ連合会〉に手紙を出して、 米山梅吉を紹介すると共に期限の延期を要請しましたところ、 R ・Tでは福島 の申出を承認すると共に、福島の協力者として当時横浜にあった、パシフィッ ク・メイル・ステイームシップの支店長ウイリアム・ジョンストンを指名して まいりました。

そこで、米山は会員選考を、福島が事務を、ウイリアムは R ・Tとの連絡に 当って、 8 月に 18 名の候補者を集めて説明会を開き、 9 月 1 日に発起人会、 10 月 20 日には銀行クラブに 24 名を集めて創立総会を開き.日本におけるロ 一夕リークラブ第 1 号が誕生したのであります。 R ・Tの認証は翌年 4 月1 日で登録番号 855 ということであります。

時の国際ロータリークラブ連合会の会長はエスタス・スネデイコール、幹事 はチェスレイ・ペリーです。東京 R ・ C のチャーター・メンバーは、

深井英五、藤野正年、藤田譲、藤原俊雄、堀越書重郎、星 一、井上敬治郎、 磯村豊太郎、伊東米次郎、岩井重太郎、樺山愛輔、梶原仲治、塵敬治郎、北島 卓、倉池誠夫、牧田環、長野宇平治、小野英次郎、佐野善作、清水打吉、 対島健之肋、和田豊治、米山梅吉、福島喜三次、翌年の理事会で朝吹常吉、富岡恒次郎、相馬半治、田原 豊の 4 名がチャーターメンバーに追加と決定しま した。

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