ロータリークラブの歴史

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ロータリーは遂に日本に来た 〜つづき〜

会長米山梅吉、幹事福島喜三次、理事には伊東、樺山、小野の 3 名が選ばれました。

この顔ぶれは、当時の東京における一流の実業人ばかりであります。福島は 唯一のロータリー経験者ではありますが、この顔ぶれの中ではたいした発言も 出来ず、そのせいもありましょうか、月に 1 回第 2 水曜日の例会が 11 月に 開かれただけで、 12 月は年末多忙ということで、翌年 1 月もまた正月だから という理由で休会となり、第 2 回目の例会は 1921 年即ち大正 10 年の 2 月 に開かれたということであります。その年 3 月に大阪支店に転勤した幹事の福 島は 3 度しか例会に出席しなかったそうであります。目本のロータリーがエリー トの集り、などといわれるのは、この豪華メンバーで発足したせいもあるかも しれません。

米山梅吉は東京 R ・ C の初代会長であり、また日本における初代ガバナー でもあり、日本人として最初に R ・T理事に選ばれた人物でもありますから、 日本ロータリーの創始者ということで、その業績も沢山の記録が残されていま す。個人米山についても、ユーモア作家の同郷人佐々木邦の手になる米山梅吉 伝などに、詳細な人物像が描かれておりますが、福島喜三次に関するものは余 り見かけません。日本にロータリ−を誘致した功労者となると、福島こそそ の第 1 人者であったというべきかもしれません。 彼が東京クラブ創立の特別代表の立場にあったことは R ・Tの記録にも残っているということであります。 東京 R ・ C の初代幹事であった福島は、井物産の大阪支店に転勤となってか らも、大阪 R ・ C の創立に活躍し、初代の幹事となって星野行則会長を助け て大阪 R ・ C の基礎を築いたのであります。

福島喜三次は佐賀県有田町の出身であります。有田 R ・ C の蒲原権という 方が『福島喜三次伝』を執筆しておられますので、この本によって福島の人物 像を紹介しましょう。

喜三次は明治 14 年 10 月 10 日、喜平の 6 男として生まれました。母は伊 万里の酒造家吉永鉄蔵の長女タツで、父の喜平は喜三次が 2 歳の時に亡くなっ たといいますから、 6 人の子供を育てたお母さんの賢母ぶりは大変評判になっ ていたといわれます。

喜三次は小学校時代収支級長を通したほどの秀才で、長崎商業学校時代 もまた主席を通して辺地の学校からは難関といわれた東京高商(一橋大学の前身〉に入学しています。

東京高商の卒業は明治37年・外交官で外務大臣にもなった佐藤尚武、 三井物産の大御所となった向井忠晴は常に席順を争った同級のライバルで あったということであります。

一橋を卒業すると直ぐ向井と共に三井物産に入社、翌年はニューヨー ク勤務、それからオクラハマ、ヒューストンを経てダラスに赴任する訳で すが、学校時代特に優れていた英会話の力は米国各地を廻っている間に、 ますます磨きがかかり、誠実にして積極的な手腕家として取引先から絶大 なる信用を得るに至ったといわれています。日本人として初めてロータリ アンに推せんされたのも、その語学力と人間性を高く評価されたからであ りましよう。

ダラスR・Cの会員として米山梅吉とのめぐり会いは奇しき因縁という べきでしょうか。

日本でニ番目にできたロータり−クラブは大坂R・Cであります。福島 喜三次は東京R・Cの例会に3回出席しただけで三井物産の大坂支店に転 勤となりましたが、そこで星野行則を識り、ロータリーについて語り合う 機会を持ちました。星野がどんな仕事をしていた人物か手元に資料不足で 調べがつきませんが、兎も角もロータリーについて大変興味を持って、1921年〈大正10年〉 英米訪問実業団の1員となって渡米した際、シカ ゴの国際ロータリー事務局を訪れ後のRI事務総長チュスレイ・べリーに 会ってロータリーに関する話を聞き、大阪にクラブをつくることを委任さ れたということであります。

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