ロータリークラブの歴史

目次    トップページ

ロータリーは遂に日本に来た 〜つづき〜

帰国した星野行則は、福島喜三次の協力を得て 1922 年 11 月に、中之島の 大阪ホテルで 10 名による準備会を開き、その月の 17 日には 25 名を集めて 創立総会という急ピッチで大阪 R ・ C が誕生しました・チャーター・メンバー は、

浅井義明、江崎政忠、藤沼庄平、長谷錠五郎、平生三郎、星野行則、伊藤忠 兵衛、片岡安、片岡直方、木村清、本間瀬策三、北田内蔵司、清瀬一郎、児玉 一造、小林一三、前田松苗、村田省蔵、坂田幹太、開一、下村耕次郎、進藤嘉 三郎、葛原操、高石真五郎、八代別彦、福島喜三次

以上 25 名で会長星野、副会長村田、幹事福島、会計八代、理事には平生、 木村、片岡安が選はれ、翌年 2 月 10 日誌承、登録承認番号は 1349 番とい うことでした。(現在は登録番号制は廃止になっています。)

この顔ぶれは、東京 R ・ C の場合と同様に大阪財界の一流どころのようで す。阪急王国を築いた小林一三や、後に閣僚になった村田省蔵や平生飢三郎な どが加わっていることを見ても想像がつきます。ただ、ここに記禄にとどめな けれはならないことは、今日でも存在する現象でありますが、関東方の実業人 と、関西方の実業人の気質に相違があって、東京 R ・ C はエリート型、大坂 R ・ C は庶民型といったものがあったといわれております。

福島喜三次夫人朝子さん(外交官杉村健太郎令妹)が未亡人となられてから の話として伝わっている言葉に「東京 R ・ C での主人は下っ端の走り使いで、 皆さんは将官級の方々ばかり、主人は尉宮級というところでしょう。大阪 R ・ C では水を得た魚のように楽しそうにロータリーの仕事をしていたように思い ます」

また、大阪は奉仕の理論派で、東京は奉仕の実践派だったという説も伝えら れています。

東京 R ・ C は創立の時から、月に 1 回の例会を引き続き 2 回も休会にす るぐらいでしたから、その後も例会の欠席者が多く、この侭では潰れてしまう のではないかと思われるような時期もあったそうですが、大正 12 年に起った 関東大震災を契機にして、俄然ロータリー活動が真剣に活発に行なわれるよう になったといわれています。

大震災の報が世界に伝わりますと、直ちに国際ロータリーから会長ガイ・カ ンデカーの見舞電報とともに、 2 万 5 千ドルの救援金が送られてきました。 更らに英、米、カナダなど 503 のロータリークラブから次々に救援金が届けら れて、総額 8 万 9 千ドルに達したのであります。

この対応の迅速さ、ロータリーの友愛と奉仕が本物であることに、東京 R ・ C の面々は吃驚仰天したということであります。

東京 R ・ C は早速 11 月 14 日の例会で、ロータリーの救援金の使途など について協議すると共に、毎月 1 回の例会を、毎週 1 回正しく開催すること に定款を改めたということであります。前に述べましたが 1922 年ロスアンゼ ルスにおける国際大会で、その時以降に創立される R ・ C は、大会で決議さ れた定款細別の遵守を義務づけられました。東京 R ・ C の創立はそれ以前で ありますから、義務とはなっていなかったのてすが、会員の自発的意思によっ て、新しい定款細別を採用することになったものでしょう。

ロータリーの救援金は、関係当局とも連絡して倒壊した小学校の改築、補修 費などに使われましたが、震災の為に孤児となった不幸な子供達を収容してい た東京菰児院に、 1 梗を新築してロータリー・ホームと名付け、東京 R ・ C の社会奉仕として後々まで誇りとされたのであります。

関東大震災がきっかけとなって、日本のロータリアン達のロータリー理念の 研究が盛んになる一方、拡大の方にも漸く活動が始まり、 1924 年〈大正 13 年〉 8 月 13 日には神戸 R ・ C の創立、同年 12 月 17 日には名古屋 R ・ C 、翌年の 9 月 28 日に京都 R ・ C 、昭和 2 年 6 月 1 日には横浜 R ・ C がそれぞれ創立されました。

その後 5 年間の停滞があって、昭和 7 年に広島、札幌、昭和 8 年に福岡、 小樽の順に拡大しますが、この 5 年の停滞は震災手形の処分から銀行の預金取 付騒ぎが起り、モラトリアムが布告されたり、浜口雄幸狙撃事件、井上準之助、 団琢磨暗殺事件などで財界不安定の時期にあったからだといわれています。

---第8章終わり---

目次    トップページ