ロータリークラブの歴史

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朝鮮・満洲・台湾で日本第70地区

大正末期から昭和の初期にかけて、日本のロータリアン達は、国際ロータリー について勉強した結果、ロータリーについて大きな関心を抱くようになったと 思われます。その現われが日本に 1 地区を設けられたいという R ・Tへの要 請となったようです。

当時の日本は R ・Tの直轄地区で、スペシャル・コミッショナーがクラブ の指導と管理をすることになっていました。初代コミッショナーは米山梅吉、 2 代目が井阪孝、 3 代目は平生釟三郎という顔ぶれで、昭和 2 年、 3 年の平 生の時代には内地の 6R ・ C と、京城 R ・ C ができて 7R ・ C となってい ました。

そこで、この 7R ・ C に加えて満州、朝鮮、台湾に R ・ C が創立されるこ とを予定して、日本に 1 地区を設定すべしという要望となった訳であります。

昭和 2 年 10 月 22 日、 23 日東京でインターシティ・コンファレンス(地 区年次大会に準ずる会合〉というのが開催されて、「会員の選考を一層厳格に すること」と「会員は歯車のロータリー徽牽を必ずつけること」の 2 つの申合 せがあり、別に日本に 1 地区設定を希望する旨の R ・T要請が決議されました。

この決議は直ちに R ・Tに申入れられましたが、 R ・T理事会は時期尚早 ということで、これをことわってきました。ところが次の年のインターシティ・ コンファレンスで再びこの間題がとりあげられて、地区設定の要望が益々強く なりましたので、平生釟三郎コミッショナーの『大変な失望と大変な不満足』 great dissatisfaction and disppointment という抗議文となり、 R ・Tも 折れて、 1923 年即ち昭和 3 年 7 月から日本、朝鮮、満州を合せて第 70 地 区の改定となったのであります。

現在 R ・Tが地区の分割を承認する基準は、大体 80R ・ C 以上といわれて おりますから、当時といえども 7R ・ C 程度では無理難題といわねばなります まい、第 2 次世界大戦が終って日本が R ・Tに復帰する際に『往時の如き理 不尽な要求をしないように』という警告を受けたことが伝えられているのは、 この時のことと、日満連合会要請のことを指しているのだということでありま す。

70 地区初代ガバナーには米山梅吉が選ばれ、昭和 6 年まで 4 年間を勤め ましたが、その間大連、奉天についでハルピン、台北にそれそれ R ・ C が創 立されて、 11R ・ C となり、会員数も 540 名となりました。第 1 回の地区 年次大会は、昭和 4 年 4 月 27 日、 28 日京都で開催されました。 1928 年 頃から 1930 年の初頭にかけて、世界は史上最悪といわれる経済大恐慌に見舞 われた時期に当ります。ポール・ハリスの著書 This Rotarian age によ れば、米国経済界にあっても大企業、中小企業の別なく倒産者が相継ぎ、企業 責任者の自殺が数多く現われたと記されております。

また、『ロータリーは 1927 年に至って、その奉仕哲学を悉く鮮明すること ができた。今後はその奉仕の理念によって実践に邁進すべきてある』というこ とがポール・ハリスの見解として述べられています。 1928 年は昭和 3 年にあ たります。日本ではどんな事が起っていたかといいますと、この年に張作霖の 虐殺事件が起っています。満洲事変から支那事変と続く日本の膨脹政策が軍部 を中軸にして進展しつつあった時期であります。

R ・Tでは日本の強引を要請に負けて、僅少 7R ・ C しか存在しない地域 に第 70 地区という 1 地区を設定したものの、日本におけるロータリー・クラ ブの実情がどのようになっているか知りたいと考えられていたよぅであります。 第 2 回太平洋地域ロータリー大会が東京で開催されることになったのも、日本 ロータリーの実体を知るためであったといわれています。

第 1 回太平洋地域ロータリー大会は、その 2 年前にハワイで開かれ、 8ヶ 国から 433 名のロータリアンが参加しました。東京大会は、太平洋に接する 264R ・ C に招待状を発し、海外 9ヶ国から 109 名、 R ・T会長サットン夫 妻も 2 人の令嬢を伴って参加し、総人員は 568 名となりました。

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