ロータリークラブの歴史

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朝鮮・満洲・台湾で日本第70地区 〜つづき〜

マルホランドは大会終了後、朝鮮、満州にも足を延して、各地のロータリア ンに対して、熱心にロータリーの奉仕の理想を解説して廻ったのであります。  また、ロータリー酵説の第 1 人者であり、関東大震災当時の R ・T会長 であったガイ・ガンデイガーもこの時日本を訪れているのであります。日本の ロータリアンもこの頃から漸くロータリー理念の真髄に触れることができたと いうべきでありましよう。

大阪 R ・ C の土屋大夢が『ロータリー以前の偉人なるロータリアン』と適 して、二宮尊徳の業績とその報徳精神を紹介したのもこの頃のことであります。

第 3 回年次大会は 1931 年 5 月横浜で開催、第 4 回は大阪、 5 回東京、 6 回名古屋、 7 回京都、 8 回神戸と続きますが、第 9 回は佐藤昌介ガバナー のホームクラブのある札幌で開催されています 010 回目は外地に飛んで京城で 開かれ、 11 回目は 1939 年 4 月松本健次郎ガバナーのもとに、別府で開催さ れましたが、日本における 1 地区の年次大会はこれが最後で、この年 R ・T は日本の希望を容れて、日本内地と朝鮮、満州、台湾を一括してる地区〈 70 、 71 、 72 )に分割し、さらにその連合会をつくることを黙認し、自治地域の適 用を評したのであります。

その経線については次回以降に述べることに致しましょう。

この期間は、日本の激動期に当ります。国際政治の面では日本の大陸進出が 開始されて、世界的な注目を浴びる時期であります。

ロータリーの関係では、その奉仕理論に対して深い閑心と同調を覚えながら も、英米で勃興したロータリーの組織の中に組み入れられることに一抹の躊躇 を感じていたと思われます。この辺からロータリーの日本化、独立自治の考え 方が現れて来たように思われます。

ロータリーの 4 つの綱領の 1 番目は、心の友達を広げていくこと、 2 番目 は自己の職業の道徳的水準を高め、且つ品位あらしめることとあり、 3 番目は 良き市民、良き家庭人、良き国民となって地域社会に要献すること、 4 番目は 善意と友情溢れる国際人となって平和を推進すること、ということになってお ります。

特にロータリアンはその所属する国家に対して忠誠を尽くすことが強調され ていると共に、人穎同胞としての立場から世界の平和と人穎の幸福をも考慮す るように奨励されております。そのことは、ポール・ハリスの戦争観や国家観 を示す幾多の文献に現われているし、また手続要覧その他ロータリーの公式文 献にも明瞭にされているところであります。

昭和 10 年代における日本のロータリアンは、ロータリーの奉仕の理想と称 する理念について、漸くその真髄を会得しつつあったと思われますが、この時 代の日本一般の風潮は、欧米諸国、殊に英米による白人優位の世界支配態勢に 対して強烈な反感を感じつゝあったというべきでありましょう。何かといえば 直ぐに親英米派などと称されてひんしゅくされるような時代であったのも事実です。

ロータリー・クラブは政治の実権を握った軍部によって、親英米派の巣窟で あるかのように目されるようになりました。

東京三越で内務省と陸海軍省の後援によって、各種秘密結社のスパイ活動展 示会があり、その結社の中にロータリーが含まれていたのは昭和 12 年〈 1937 年〉のことであります。

ロータリーの奉仕の理念は立派なものである。しかしながらその組織の中心 はアメリカにあって、そこから指導と管理が行なわれている。この組織の在り 方に何等かの改善を加えなければ、日本におけるロータリーの存在は危くなる。 そう考えるロータリアンは段々その数を増して釆たというべきでありましょう。 その時、ロータリーの組織をよくよく研究してみると、英国におけるロータリー は R ・T・ B ・Tと称して独自の組織を持って運営されていることを知りました。

ここに至って日本のロータリアン達は、ロータリーを日本で生かす方法とし て、自治地域の適用を R ・Tに要請し、 1939 年の R ・T理事会がこれを認 容する訳でありますが、日満ロータリークラブ連合会と称されたこの自治運営 機構は、 1940 年 5 月横浜で第 1 回大会を開催しただけで、日本はロータリー を離脱することになります。

---第9章終わり---

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