ロータリークラブの歴史

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ロータリー思想の基本確立さる 〜つづき〜

亡くなった松本兼二郎 PG が、『ロータリーの友』に 1918 年度の会長レスリー ・ビジョンの功績として、ミズリー州カンサス・シティ大会における講演のこ とを記しておられました。それは、キプリングの『ジャングルの法則』という 詩の一節を引用して、ロータリーは団体奉仕か』『個人奉仕か』の譲論に明快 な解答を与えたという一件であります。

つまりアーチ・クランプの提唱した国際理解の為の教育基金は、世界中のロー タリアンが捷金して基金を作る訳であって、それを運営し使うのは団体である からそれは団体奉仕となるではないか、しかるにロータリーは個人奉仕が基本 であってこれを奨励しているのだから、基本的理念に反することにならないか、 という意見が相当有力にあったということであります。

キプリングの詩というのは、『狼の群れの力は一匹の狼の力、そして一匹の 狼の力は群れの力である』という意味を詠ったものであります。

ロータリアン個人の奉仕は、積もり積もって連合会の大きな奉仕のエネルギー となる、連合会が世間一般から評価されることは、ロータリアン個人の奉仕の 原動力となって作用する、とこのように説いたものであるということです。

ロータリーの奉仕は団体奉仕』か『個人奉仕』かということで議論の対象と なった『国際理解の為の教育基金』制度は、国際ロータリークラブ連合の第 8 代会長レスリー・ビジョンの名演説こよって、ひとまず議論は鎮静し、基金は ロータリアン各自の任意の寄付金によって運営されるといぅことに落ち看きま した。つまり寄付金は個人の奉仕であって、基金の運営はロータリアンの委託 によって、連合会という団体が奉仕するという訳でありましょう。

基金に対して最初に寄付したクラブは、 1918 年大会の行なわれたカンサス・ シティ R ・ C であって、 26 ドル 50 セントであったという記録が残されて います。

その後、『教育基金』への寄付は活発ではありませんでしたが、 10 年後の 1928 年に至って財団法人の登録が行なわれて、基金の名称を『ロータリー財団』 とすることになり、 200 万ドルの寄付金募集を推進する方針が打ち出されまし た、しかし実際に『教育基金』の目的とされた青少年に対する国際理解のプロ グラムが発足したのは、 1947 年ポール・ハリス逝去の年で『ロータリー財団 奨学生制度』として実ったのであります。

1947 年は昭和 22 年に当りますから、既に第 2 次世界大戦が戦かわれた後 のことであり、世界中のロータリアンは近代戦争の惨状を目のあたりにして、 国際理解の重要性をひしひしと感じて、 1917 年のアーチ・クランプの提唱に よる『国際理解の為の教育基金』即ち『ロータリー財団』に対する関心が漸や く顕著になっていたようであります。

特にポール・ハリスは、第 1 次、第 2 次世界戦争を経験して、戦争が人と 人との無理解によって起るものであり、それは国益を守らんとする参政者の歪 曲された愛国思想と、これを煽動する言論機関の、これまた狭義の愛国心に因 するとの信念を、ますます強くもつようになり『ロータリー財団』に対するロー タリアンの関心を強く訴えていたということで、財団の強化について遺言があ ったという説まで伝えられている程であります。

当時のロータリー財団の基金は、せいぜい 200 万ドル程度のものであつたと 思われますが、 1978 年 6 月末現在で財団基金は 7 千 2 百 59 万 1760 ドル となっています。しかも 1 年間に 1 千百 92 万 6774 ドルの寄付があったと いいますから、けだし隔世の感があります。

1919 年の国際ロータリー連合会は、ユタ州のソートレークで開催されまし た。第 1 次世界大戦は前年の 11 月 11 日に、連合軍の勝利となって終結して いましたので、この大会は歓喜のルツボとなったということであります。モル モン教の大会堂を使った会場へは、軍楽隊をひきいて乗り込む参加会員もあり、 ホスト・クラブの全会員は、ブルーの上衣に白ズボン、白靴で現われ、ニュー オルリンズからの会員は、オーム色の上着と白ズボンといういでたちで、戦争 の終結を歓ぶロータリアンの熱気に満ち溢れたということであります。

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