ロータリークラブの歴史

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定款・細則の統一と義務化成る 〜つづき〜

さて、順調に躍進、発展しつつあった1930年代のロータリーにも、 幾つかの特筆すべき事柄がありますので、それをたどってみることにいた しましょう。

規定審議会というのは、国際ロータリーの立法機関であります。この事 議会が初めて開催されたのは1934年ミシガン州デトロイト大会の時で あります。

それまでは、制定すべき案件をすべて大会の代議員によって審議してい た訳でありますが、代議員数も年々増加し、審議する案件も毎年増加する 一方でありましたので、規則の審議に当る別の機関をつくることが適当で あると考えられた結果、国際大会の一部の機関ということで、規定審議会 を設けることになったのであります。

創設の初めは、国際大会と同時に同場所で毎年開かれていましたが、後 には偶数年度だけ隔年に開催され、それが長く続けられていましたが、1978年度に至って、3年毎にRI理事会の定める場所および時期に開催 する、ただし理事会が別に定めた場合を除き、同一国内において2回以上 続けて開くことは出来ない、となって、国際大会とは別の場所、別の時期 に開催することに改められたことが、手続要覧に記載されております。 1935年にはポール・ハリス夫妻が日本を訪れております。フイリッ ピンで開催された大平洋地域大会に出席する途中日本に立ち寄ったもので すが、後で日本ロータリー史を紹介する際に譲りましよう。

この年の大会はメキシコで開かれましたが、ここでロータリーの綱領が 現在の四つ文言に集約されました。ロータリーの綱領は初めは、国際ロー タリーの網領と、ロータリークラブの綱領の二本建となっていましたが、 幾度かの変遷があって1922年のロスアンゼルス大会で、国際ロータリ ークラブ連合を国際ロータリーと現在のように呼称することに改められた 機会に、網領もまたRIのものもクラブのものも同一の文言に統一されて、 一本建となったのであります。その後更らに1935年のメキシコ大会で 文言に修正を加え、今日の四つの綱領となりました。

1939 年には、シニアアクチープ会員制度が実施されています。さきに共同経営 者などをアデイショナル会員として入会を認め、 1 業 1 会員制度に特例を開 きましたが、ロータリーも創立以来 30 年余りを経過しましたので、 1930 年 に出来たバスト・サービス会員に加えてロータリー歴の長い人の職業分類を開 放して、新しい会員の入会を認める制度を作った訳であります。1940 年に至 って日本のロータリークラブは R ・Tを脱退することになりますが、これも後 で日本ロータリー史を書く時に譲りましょう。1942 年、 32 年間に亘って R ・ T事務総長を勤めていたチェスレイ・ペリーが高齢のため勇退することとなり、 フイリップ・ラブジヨイが二代目の R ・T事務総長に就任しました 。ベリー は前に記しましたように、組払と運営に抜群の才能を発揮して、ロータリーの 基礎造りに大活躍した人物で、文字通りポール・ハリスの片腕となったロータ リアンであります。彼が勇退を決意した時の国際大会で、永年の功績を称える 為に『名誉事務総長』の椅子が用意されましたが、ペリーは次の如く述べてそ の栄誉を辞退したと伝えられています。『ロータリアンが、何かの役職につ く場合には、義務と責任が生じます。何程かの権威も認められるでしょう。し かしながら役所を去ったものは単に 1 人のロータリアンであります。わたくし は今後 1 人のロータリアンとして、ロータリーの奉仕の適を歩きたい』

彼の希望は万場の感激と拍手をもって認められたということであります。 1947 年 1 月 27 日、ロータリーの始祖といわれるポール・ハリスは、 79 才 をもって逝去いたしました。日本にロータリーを開設した米山梅吉は、それか ら 1 年前の 1946 年 4 月 28 日に逝去しています。 78 才であります。

このお二人は共に 1868 年、即ち明治元年の生れで、その青少年時代におけ る人生経験も、何処か一脈相適する穎似性が感ぜられますが、生れ年が同じで、 死なれた年も同じ噴という、何か因縁めいたものを感じる、というのが大方の ロータリアンの感想であります。

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