2024-2025年度
国際ロータリー2700地区 ガバナーメッセージ
「変化につよく、未来をひらく」
Introduction
History
ロータリーの創立は、1905年2月23日であります。これは明治38年に当りますので、日本では日露戦争の最中で、約半月後の8月10日は奉天会戦の日であります。それから3ケ月ばかり後の5月27日には、日本海大海戦が起っております。R・Ⅰから発行された『ロータリー奉仕の50年』には、この年アインシュタインが相対性原理を発表し、1908年にはライト兄弟がノース・カロライナ州キティフォークにて初飛行を試みたとあり原子力の解放によって人類は第3の火を発見する端緒をつかみ、航空機発達の第一歩を踏み出すことになったのだと記して、20世紀こおける世界文化史に、偉大なる足蹟を印したロータリー創立の快挙をしのんでおります。
シカゴ市にあるユニティピルの711号室に、鉱山技師のガスターガス・ローアの事務所がありました。1905年2月23日の午前、その軍務所で主人公のローアと彼の友人の洋服商ハイラム・ショーレイが世間話をしていました。昼を少し過ぎた頃弁護士のポール・ハリスが、彼の友人である石炭商のシルベスター・シールを伴って訪ねて釆ました。この4人がロータリー創立の日に集まった、有名な4人の人物であります。
ガスターとシルベスターは何れも独乙人の両親を持つ独乙系で、ポールは英国から、初めにアメリカに移住した新教徒の子孫であると伝えられていますが、ハイラムはメイン州からシカゴに移住したというだけで、その国簿は伝えられておりません。
集った4人の友人達の話題は、ポール・ハリスが以前から、シルベスターやガスターガスに話していた社交クフブの結成についてでありました。ハイラムはガスだけの友人でポールの議を聞くのは初めてのことだったよぅですが、友人を沢山つくってお互いに商売上の利益を得るようにしよう、というポールの提案を一番関心をもって聞いていたと伝えられています。
この時のポールの話を要約すると、大体次のようなことであったと思われます。
つまり石炭を買うのはシルベスターの店から、洋服はハイラムに頼み、裁判で争うようなときにはポールに、鉱山関係の商売はガスターに、しかも同業者は他に1人もいない。皆兄弟のように仲良くする、とまあこんな訳であります。
4人はいずれも田舎出の青年で、シカゴでは未だ自分の仕事を充分に確立するまでに至っていないが、青雲の志を抱いて都会に出て釆た者ぼかりでありますから、ポールの提案は他の3人の共鳴するところとなって、社交クフプの結成はスタートを切ることになったのであります。ポールが38才他の3人も大体同年輩の年頃であったと伝えられています。
第2回目の会合は、2週間後の3月9日ポールの事務所で、第3回目は3月28日、シルベスターの事務所で開催され、それまでに不動産業のウィリアム・ジェンスン、印刷業のハリー・ラグラス、洗濯業のアーサー・アーウイン、オルガン製造業のアル・ホワイト、保険業のチャールズ・ニュートンが入会していました。
そこで第3回目の会合の時に、社交クラブとしての規約を作り、会長にシルベスター、記録幹事にショーレイ、通信幹事にジェンスン、会計にラグラスが任命されました。さて、そこでクラブの名称を付けることになりましたが、沢山の名称が提案され、あれこれと意見がありましたが、結局ポールの提案した『ロータリークラブ』というのが決定したということであります。
このクラブ名の決定については、他に異論もありますが、ここではポール・ハリスの著書 My road to Rotaryの記述を採用しました。
またこの会合で、現在のロータリーの徽章の原型である車輪のマークを作ることになったと伝えられております。
ロータリー創立の日となった最初の4人の集まりで、最も雄弁に、最も情熱をもってしやべったのは弁護士のポールだったということであります。
彼は幼年期から青年となるまでに経験した故郷の豊かな人情の専さについて語り、同じように田舎出身である3人の友人に対して、友情こそ人生における最も貴重なものであることを力説し、他の3人もまたこのことに全面的に賛成したといわれております。1935年即ち昭和10年に、第5回太平洋地域大会が、フイリッピンのマニラで開催された時、ポール・ハリス夫妻は日本に立ち寄り、日本のロータリアンと交歓いたしましたが、東京会館で催された歓迎レセプションの時でもありましょうが、或るロータリアンがロータリー創立当初のポールの心境について開いたところ、彼は『私達は友情に飢えていたのです」と答えたと伝えられています。
ロータリーヘの発想は、4人の友人達が恋いこがれた厚い人情の絆に結ばれている、それぞれの故郷の交りを大都会であるシカゴに再現しょう、という心意気が期せず共鳴するところにあった、と考えて間違いなさそうであります。
さて、それではポール・ハリスの生れ育った故郷を見ることにいたしましょう。
米国の北東部ウイシコンシン州に、レイシーンという小さな町があります。その町で雑貨商を営んでいたジョージ・ハリスとコーネリア夫妻の次男とし生れたのがポール・ハリスであります。父のジョージは発明と文筆に凝って、ポールが3才の時家業に失敗倒産したので、ポールはバアモンド州ウォーリングフォードで農業を営んでいる祖父のハワード・ハリスの家に引き取られ、そこで大学を卒業するまで育てられております。従ってポールの脳裡にある故郷とはクオーリングフォードのことであります。
ポールは、このハワード祖父と、祖母のパメラさんの手で育てられました。お二人とも大変信心深いクリスチャンで、特に幼いポールをなにくれとなく世話したパメラおばあさんとの交渉は、ポールが大学を出て社会人となる時『ボールや、お前は今までいろいろの人の世話になったが、社会に出たら自分以外の人にその恩返しをしなければなりませんヨ』と訓えた、という有名な話が残されている程であります。
ポールの著書 My road to Rotary には、ウォーリングフォードにおける家族との情愛、近隣の人々との友情が、心温まる想い出として書きしるされているのであります。
ポール・ハリスは、ロータリーの創設者といわれています。彼はまた文章の才がありましたので、自作の著書や記録を沢山残しています。そこで、しばらくロータリーの歴史を離れて、ポール・ハリスの生い立ちを調べてみることにいたしましょう。
ポールがウォーリングフォードの祖父の家に引き取られたのは3才の時のことであります。その後一時期父母と一緒に暮らしたこともありましたが、これは極く僅かの間で再び父の商売は失敗するという不運に会って祖父の家に帰って釆ます。それからは祖父母が亡くなるまでウォーリングフォードを郷里としていた訳であります。
ポールの幼年期から少年期に亘る自叙伝によれば、彼は相当の腕白坊主であったようであります。最初に入学したバーモンド州ラドローのブラック・リバー・アカデミーでは、気性が激しく教師と衝突したのが原因で退学となり、サクストン・リバーのバーモンド・アカデミーに転校しています。そこを卒業してバーリントン市のバーモンド大字に進みますが、その学校も暴力学生ということで退学処分となります。もっともこの時は無実の罪であったが友人を庇って、ポールは一言の釈明もしなかったということであります。そのことがきっかけとなってポールの腕白ぶりは止み、祖父のはからいで家庭教師につき、やがて名門のプリンストン大学に入学できましたが、祖父の死のため中途退学を余儀なくされ、一時期大理石会社に就職しますが、祖母のパメラさんの激励を受けて、アイオワ州立大学に入学し、弁護士事務所で働きながら大学の法律学科を卒業するのであります。
ポールは卒業と同時に弁護士試験にも合格しますが、直ちに就職することなく彼の自伝にいうFive yars of Folly(5年間の愚行〉が始まるのです。その時には祖母のパメラさんも亡くなって〈大学在学中〉ポールは孤独になっていたということであります。
5年間の放浪生活は、ほとんど米国全州に及んでいます。経験した職業も新聞記者、教師、ホテル従業員、映画俳優、農家手伝、カーボーイ、果実荷造人夫、下級船員、大理石販売人など多種多様にわたっています。ポールはこの5年間に貴重な人生経験を得たし、また沢山の心の友人を得ることができました。後年彼がロータリー運動の拡大を計画するようになった時、この5年間に得たものは計り知れないはど大きなポール・ハリスの財産となっていたのであります。
ポール・ハリスの5年間に及ぶ職業遍歴の旅は、彼の人格形成、彼の人間性に極めて大きな影響をもたらしていることは確実でありますが、いろいろな職業人を友人とすることが出来たことは、ポールの人生行路に大変に役に立っているといわねばなりますまい、沢山の友人のうち彼が特別の感慨をもって語っている人物に、フロリダ州ジャクソンピルに大理石業を営んでいたジョージ・クラークがいます。クラークはポールの人物にすっかり惚れ込んで、ポールを共同経営者にしたいとの願望を持っていましたので、ポールを1人の営業部員とは考えず、彼のために多くの便宜を与えています。
ポールは5年間の放浪生活中に、下級船員となって2度英国に渡って見物しておりますが、貸物船が港に看いてから出航までの間のわずかな時間のことで、十分の見物が出来ないままに帰途につかざるを得ません。そこでポールに欧州見物の熱望のあることを知ったクラークは、彼を欧州における大理石業界の視察と販路拡張の特派営業部員として派潰しています。またニューヨークを見たいといえば、支店長を更迭してまでポールの希望をかなえてやったこともあります。両名の友情の様子はポール・ハリスの自伝に、詳しく述べられているところであります。
後にポールがロータリー・クラブを全米各地に拡大する計画をたてた時、その要請に応えてジャクソンビルR・Cを創設し、その初代会長に就任したのが、このジョージ・クラークであります。1896年に至って、ポール・ハリスはクラークの会社を辞して、シカゴで弁護士を開業します。ポールが去るに当ってクラークは『一緒に仕事をしょう、十分に金を儲けることができる』といって引き留めにかかりますが、ポールは『君の厚意は有難いが私はシカゴに金儲けに行くのではありません、人生を生きるために行くのです』と答えています。
クラークはポールの気性をよく知っているので、それ以上引き留めることをやめ、心よくポールをシカゴに送り出したということであります。1896年から始った大都会シカゴでのポール・ハリスの日常生活は、大変味気ないものであったようであります。彼の年令は既に29才、数々の職業遍歴と人生経験によって、ポールは常識豊かになり弁護士として世間を見る目も鋭くなっていました。
1896年から1905年までの約10年間をロータリーの神代の時代と考えてみるのも面白いことではないかと思います。この年月は弁護士ポール・ハリスが、職業を通じて或いは1人の市民として、大都会シカゴの表裏にうごめく悪徳非行を見聞し、その汚濁の世界と、少年時代を過したウォーリングフォードの清純な田舎生活を比較し、深刻な感慨を胸に抱き人間疎外感や孤独感を味わって、毎日毎日の生活にやるせない思いをかこつ時代ということが出来るようであります。
This Rotarian ageの一章を抜き書きしますと、 『サルーンは貧しい人間の集合場所であったが、アルコールの昂奮は人と人との障壁を美事に打ち破るばかりでなく、各人の自専心をも撲滅した・・・・・・』 『所有するものは失なわぎらんとして戦い失なえる者は糧を得んとして争った・・・・・・』 『借家人は家賃を怠り、借金者は利子を怠り、小売商人は卸し先への、卸売商人は製造元への支払いを怠ったので、裁判所は不法侵入、監禁願、貧困保護、抵当処分、失権回復、差押えなど、ありとあらゆる事件が充満した』 『僧悪、暴力、詐欺、ぺてん等すべて非人間的行為が、金儲けと食べるために横行した』
19世紀末のアメリカは、欧州その他から陸続として移住して来るひと旗組の人達によって、血のにじむような開拓が行なわれ、シカゴのような大都会では、生きるための人間の修羅場が現出していたというところでありましょう。1900年の夏、記禄によりますとポール・ハリスは友人の弁護士の招待を受けて、彼の自宅に赴くことになりますが、そこでポールは、友人が街を歩きながらあちこちの店の主人や通行人達と、親しく談笑している有様を見て大変な衝撃を受けることになります、彼が驚いたのは、このような大都会の中にもウォーリングフトドにあったような、心温まる友情が存在しているという事実でありました。それまでのポールは日曜日に教会に行く時以外は全く孤独でありました。彼の述懐するところによりますと、日暮れ時や週末の仕事のない日には、遥かなる故郷の山や川、少年の頃の思い出に浸りながら、都会生活の無味乾燥さに気のめ入る思いをしていたということであります。『温い友情に渇いていたからロータリーの発想があった』と彼はいう。その通りではなかったかと思われます。
生き馬の目を抜くような猛々しい生活環境、人の心を信ずることの困難な対人関係、愛情の砂漠というべき大都会において、如何にしたら豊かなる愛情によって結ばれた友情のオアシスを作ることが出きるか、1900年から1905年迄の5年間は、ポール・ハリスがロータリー運動について思索した時代というべきでありましょう。
この5年間に、ポール・ハリスは、大都会の荒廃し、汚濁に満ちた世相を慨嘆して、世直しの手段としてロータリーの構想をまとめたという見方もありますが、この見方はロータリー発生後5年、10年を経過する間に生れた構想であると考えた方がよろしいようで、1905年の時点では、温い友情をもって結ばれるオアシスを作りたい、との考えに専念していたという方がよかろうと思われます。
さて、いよいよロータリーの発生史を語ることになる訳ですが、実はロータリーの初期の記録はほとんど失われていたということであります。現在のものは6回目の例会の時間に『昼食をしていた』といって遅刻したチャールズ・ニュートンの記録を中心に、初期の会員達の記憶を寄せ集めて、1924年に行なわれたロータリー史縮纂委員によって、まとめられたものであるといわれております。
シカゴロータリークラブの初代会長が、シルベスター・シールにきまり、幹事が選ばれ、規約と徽章が決定したのは、前に述べましたように第3回目の会合の時でありますが、当時の会員は1年間の限定会員であって、出席のよくない者は1年限りで会員資格をはずされることになっていたということであります。この規約は間もなく無くなりましたが、4回無届け例会欠席の者は、自動的に会員資格を失うという規定は、今日もなお生きているのであります。1906年オルガン製造業のアル・ホワイトが会長に適ばれました。彼は会員増強のため友人の弁理士ドナルド・カーターに入会を奨めましたところ、ドナルドはクラブの規約その他の説明を受けると『親睦と相互扶助だけのクラブでは意味がない、もっと社会公共のためになることをすべきである』といって入会をことわりました。そこでアル・ホワイトはその意見をポール・ハリスその他の会員に話しましたところ、ドナルドの意見はもっともであるということになり、シカゴR・Cの目的になっている『親睦』と『相互扶助』に加えて、第3条として『シカゴ市の利益を推進し、その市民の中に市に対する誇りと、忠誠の精神を普及すること』の項目が加わり、ロータリーに奉仕の概念が誕生するきっかけとなるのであります。