2024-2025年度
国際ロータリー2700地区 ガバナーメッセージ
「変化につよく、未来をひらく」
Introduction
History
米国以外の国にロータリークラブができたのは、カナダのウイニベヅグが最初で1910年といいますから、第1回全米ロータリークラブ連合会が、シカゴにおいて開催され、16のR・Cから会員が参加したという記念すべき年であります。
次の年にはアーサー・フレデリック・シェルドンなどの活躍で英国ロンドンとマンチェスターにクラブが設立されました。ところがそれ以前にアイルランドのダプリンにロータリークラブがあるという噂を聞き調べてみますと、サンフランシスコR・Cの会員であったスチュアートモーローなる人物が、故郷ダプリンに帰って、タプリンのほかにベルフアストにもクラブを作っている事実を知り、早速連合会の会長となったポール・ハリスや事務局のチェスレイ・ペリーに連絡して、両クラブ共にロータリーの傘下に入るという。エピソードが伝えられています。
モーローはその後、ポール・ハリスの激励に応えて、エジンバラ、グラスゴー、リバープル、バーミンガムなどにも、それぞれR・Cを設立するという大活躍をしたということであります。
ここにひとつ、ロータリー拡大について問題が起ります。といいますのは、それまでにクラブのできたところは、カナダといい英国といい何れも英語を話す国でありましたが、非英語国であるキューバのハバナにロータリークラブを作るべく、或る会員が努力しましたが失敗に終ったという実績が現われました。
この実績は拡大に熱心なロータリアンにはショックであったらしく、ロータリーの思想はアングロサクソン的な思想にすぎぬのではないか、との危惧を抱くものが多かったということであります。しかしながらこの危惧はほどなく解消されました。
それはフロリダのタムバR・Cのアンヂュル・ケスタという人物が友人のジョン・ターナーと協力して1916年に、ハバナ・ロータリークラブの創立に成功したからであります。
ケスタはこれに気をよくして、彼の母国スペインに帰って、ヨーロッパ大陸最初のクラブをスペインのマドリッドに作ることにも成功しました。
その後、欧州大陸内部のフランス、オランダ、デンマークなどにはフレッド・ティールなる人物が、国際ロータリーの依頼を受けて各地にロータリークラブを創立して行ったということであります。
南米にロータリークラブを広げたのは、ウルグアイ出身のリベルト・コアテスという人物であります。彼は1928年にモンテビデオR・Cの創立に成功し、その経験によって南米各地にロータリーを拡大していったということであります。
ロータリー拡大のために尽力したロータリアン達の記録は、このほかにも沢山あるのでありますが、特筆大書すべき業績を挙げた人物に、カナダのマニトバ州カルガリーR・Cのジェームス・デピッドソンなる人物があります.彼は友人のJ・L・ラルストン大佐と協力して、先ずオーストラリアのメルボルン、ニュージーランドのウェリントンにR・Cを創立したのを皮切りに、国際ロータリーの委嘱をうけて、1928年から2年半に亘って、地中海沿岸から印度、東洋方面を歴訪して、アテネ、エルサレム、カイロ、ボンベイ、デリー、マドラス、コロンボ、ラングーン、クアラ・ルンプール、セレンパン、イボー、バタピヤ、バンドン、マラン、セマラング、シンカポール、マラッカ、ペナン、メダン、バンコック、ホンコンなど実に21R・Cを作るという快挙を成し遂げたのであります。
ポール・ハリスは彼の著書 This Rotarian age の中で特にロータリー拡大に尽力した功績者としてデピッドソンの名前を挙げていますが、『ロータリーを勧説する人々は、自ら進んでその使命に当る信念の戦き特志家であって、時と金とを費してロータリー思想の宣揚普及に奔走した人達である』といって、そのような特志家としてテピッドソンのほかに、ドイツの元首相ウイルヘルム・クノー博士、豪州のヘンリー・ブラッドン卿、ニュージーランドのジョージ・フオウルズ卿、ペルーの元駐米大使フェデリコ・ベツエアト、それに日本の米山梅吉の名を挙げております。
ここに1988年即ち昭和8年当時の国際ロータリー拡大の記録があります。この年の世界におけるクラブ敬は3,608で、会員数は14万7000人となっています。米国が2,444R・C、カナダ112、メキシコ82、英国〈R・Ⅰ・B・Ⅰ〉375、フランス49、ドイツ36、イタリア26、スペイン22、スイス22、南アフリカ10、豪州11、日本11、中華民国8、というのがその数字であります。
間もなく第2次世界大戦となって、独乙、伊太利、日本などはロータリーを脱退することになる訳であります。
さて、ロータリーの歴史の本筋に戻ることにいたしましょう。
ここで、1920年にロータリーが日本に上陸した話題を述べるべきかと思いますが、日本におけるロータリークラブの創立は、後に譲りまして『国際ロータリークラブ連合会』の1921年の大会について調べてみましょう。この年の大会は初めて米国を離れて、スコットランドのエヂンバラで開催されました。
記掛こよりますと、米国のロータリアン達は二隻の汽船をチャーターして、家族を含めた多数の者がエヂンバラ大会に参加したといわれています。
『従来の使節は外交と通商のための使節団であったが、われわれは友愛と平和と親書の使節団である』と称して大会場は文字通り友愛と親書の渦に巻き溢れて、盛会を極めたと伝えられています。この時からロータリーに『国際奉仕』なる言葉が登場し、現在のようなR・Ⅰの奉仕の実戦の中で、世界的に高い評価を受けることになる訳であります。
また、この大会ではロータリーの統一的定款細別を作る必要があることが決議されて、当時あった25地区から各1名宛、連合会会長指名の4名に連合会事務局長チェスレイ・べリーを加えた31名の委員によって、統一的定款錮別の研究が進められることになりました。
例会出席にメークアップを認める規定も、この大会で決定されたということであります。
国際ロータリー綱領の第4項『奉仕の理想に結ばれた実業人と専門職業人の世界的親交によって国際間の理解と親善と平和を推進すること』この文言は少し違いますが、エデンバラ大会で加えられたものであります。1922年の大会は、ロスアンゼルスで開催されました。この大会で特筆すべきことは、先づ『国際ロータリー』Rotary Internationalと改ためられたことであります。
次に注目すべきことは、ロータリーの第2回目のルネッサンスともいうべき、重大な論議の火蓋が切って落されたのがこの大会からであるということであります。
議題は何かといいますと、それは『ロータリーは個人奉仕が主か、団体奉仕が主か』ということで、今後は『国際理解の為の教育基金』の場合と違って、社会奉仕に閑する論争となる訳であります。