2024-2025年度
国際ロータリー2700地区 ガバナーメッセージ
「変化につよく、未来をひらく」
Introduction
History
1914年は、サラエボにおいてオーストリアの皇太子夫妻が暗殺されたのが原因となって、第一次世界大戦が勃発した年であります。ロータリーの世界ではその奉仕の理論をもってロータリーの基礎を築いた貢献者の1人といわれる、トレドR・C会員のフランク・L・マルホランドが、国際ロータリークラブ連合会の会長となって、大会はテキサス州のヒューストンで開催されています。
この大会でアデイショナル・クラブの規定が出来ました。それまでは一都市に一つのロータリー・クラブが認められるのが原則でしたが、ニューヨーク市の5つの区の一つであるブロンクスに、新しいクラブを設立する希望がありましたので、これを許可する為に一都市に複数のクラブを作ってもよいことに規定を改めた訳であります。
マルホランドは後に(1930年)R・Ⅰ会長代理として来日し、当時70地区となっていた日本の年次大会に出席して雄弁を振るった記録が残っています。彼は現在のロータリー綱領の4番目に掲げてある『ロータリーの奉仕の理想に結ばれた実業人専門職業人の世界的な友情をもって国際間の理解と善意と平和とを推進しょう』との趣旨を強調して、年次大会に参加した日本のロータリアン達を魅了したといわれています。
1930年は昭和5年に当りますので、満州事変、支那事変など日本は激動期に突入しつつあったのであります。マルホランドは大会に出席した後も、引さ続き日本に滞在して、各クラブを歴訪し、京城から奉天にまで足をのぼして、ロータリーの理念を熱心に説いてまわりましたので、当時の日本のロータリアンは彼によって大いに啓発され、学ぶところがあったといわれています。
1915年の大会がサンフランシスコで開催されたことは前に述べました。この時の国際ロータリークラブ連合会の会長アレン・D・アルパートもまた有名な会長であります。この大会で『職業倫理訓11ヶ条』が採択された経緯も前に述べましたが、そのほかに各クラブ共通の定款、細別が出来上っています。それまで各クラブは、シカゴR・Cの規約を手本にして、それぞれ地域性を加味した規約を作っていましたが、サンフランシスコ大会でこれを統一することになった訳であります。もっともこの定款、細別は強制的なものではなくて、採用するように奨励することになっていました。1915年のサンフランシスコ大会は、ロータリー大会史上画期的な大会の一つであるといわれていますが、この大会では前述の『倫理訓』と『定款細則』の採択のほかに、現在のロータリー綱領4項目の原型ともいうべき、6項目の綱領も採択されました。
以上でありますが、ロータリー博士として有名な宮脇冨民の『ロータリー綱領の変遷』によると、1910年第1回『全米ロータリークラブ連合会』の際に5項目の綱領が採択され、次いで1912年に『国際ロータリークラブ連合会』の改称時に、4項目の綱領に改訂されたものが、1915年に前記項目に改められたということであります。
現在の4項目の綱領となるまでには、1913年カンサスシティ大会、1922年ロスアンゼルス大会において改訂があり、1935年のメキシコ・シティ大会で4項目にまとめられ、現在のものが出来上ったということであります。
サンフランシスコ大会では更らに、ロータリアンの教育に関する『教育委員会』が発足して、その委員長にフィラデルフィアR・Cのガイ・カンディカーが選ばれました。
ガイは後にR・C会長にも選ばれた人物ですが、閑東大震災に際して8万9千ドルの義援金がロータリーから送られた時の会長であります。
教育委員会はその成果として、ガイ・ガンデイカーの執筆による『ロータリー通解』"ATalkingKnowledgeofRotary"を出版しましたが、これはロータリーの解説と、ロータリアンの心得を平易に解説したロータリー文献として最初のまとまった本で、今日もなおロータリアン必読の書として、世界中で高く評価されているものであります。
ロータリーは創立のはじめ、会員の友情を厚くし、会員の企業繁栄のために相互に協力する、という点に強い関心を示しました。次いで、公共に尽くし地域社会の向上発展に貢献せんとする意欲を強く奨励するようになり、更に、会員の企業運営について高い道徳的水準を求める点を強調する、職業倫理に関心を払うようになりましたが、第1次世界大戦を契機として、国際的問題に対しても強い関心を向けるようになるのであります。
1914年第1次世界大戦の幕が切って落されると、独乙皇帝カイゼルの軍隊は、中立国ベルギーに怒涛の如き勢いをもって侵入しましたので、イギリスやアイルランドのロータリークラブは、ベルギーの避難民を収容して人道的立場から救済に活躍した記録が残されています。
アメリカが参戦したのは1917年になってからのことですが、何時の場合にもあるように、アメリカに移住している独乙系住民は、敵性国人として種々の圧迫を受けたということで、各地のロータリークラブでは、独乙系住民に対して人道的立場から、彼等を圧迫から救済する為に活躍したということであります。
ロータリー創立の、最初の会合に集まった人の内、シルベスター・シールとガスターガス・ローアは、何れも独乙人の両親を持った人物であります。彼等が圧迫を受けたという記録は見当りませんが、おそらく彼等以外にも独乙系のアメリカ人で、ロータリアンであった人達は多数いたのではないかと想像されます。
ポール・ハリスの著書を見ますと、戦争に反対する彼の思想がうかがわれます。
『一般社会における殺人は、社会を毒する凶悪犯として刑を受け、自らの命をもってその罰を償う、しかるに戦争における殺人者は、国家によって表彰され勲功をも授けられる、世人も殺人者に対して賞賛を与える、これ文明の一大恥辱というべきであろう』
文言はこの通りではありませんが、以上がポールの戦争観の基本であります。
彼はまた、戦争は勝敗いづれの場合も相償わぬものである、人間の感情を抑制せざる結果が戦争につながるとも主張し、『戦争挑発の罪は、破壊手段を発明する科学者、軍備を供給する金融財政家、理性を放棄せしめ感情の激成を誘う新聞雑誌製作者』であると説いたイギリスのノーベル貨受賞作家、ジョン・ゴールズワージJonengolsworthyに賛成の意見を述べているのであります。
国際理酵を増進して世界を平和に、という国際奉仕の基本的姿勢というべきでしょう。
大量殺人を伴う凄惨な近代戦が、欧州大陸において行なわれている1917年、遂にアメリカもこの戦争に加わることになって、若いアメリカの将兵は戦場に派遣されて行きます。この年国際ロータリークラブ連合会はジョージア州アトランタにおいて大会を開催します。時の会長はアーチ・クランプであります。
アメリカの独乙に対する宣戦布告は、既に4月6日に発せられておりましたが、ロータリアン達の胸の中には、悲惨を極める戦争に対する傷心やるせないものがあったのは当然でありましょう。その空気をくみ取るような決議がアトランタ大会において採択されました。
これが有名な「国際理解の為の教育基金」の決議であります。戦争は国と国、人と人との無理解に根ざして起るものであるから、世界中の若者の国際理解を推進することから、次の戦争への道をとざす努力をしよう。というのが教育基金制度の基本概念であるといわれていますが、この教育基金制度が今日のロータリー財団となって、ロータリーの国際奉仕プログラムとして、大さな役割を演ずるようになるまでには、幾多の変遷がある訳であります。
亡くなった松本兼二郎PGが、『ロータリーの友』に1918年度の会長レスリー・ビジョンの功績として、ミズリー州カンサス・シティ大会における講演のことを記しておられました。それは、キプリングの『ジャングルの法則』という詩の一節を引用して、ロータリーは団体奉仕か』『個人奉仕か』の譲論に明快な解答を与えたという一件であります。
つまりアーチ・クランプの提唱した国際理解の為の教育基金は、世界中のロータリアンが捷金して基金を作る訳であって、それを運営し使うのは団体であるからそれは団体奉仕となるではないか、しかるにロータリーは個人奉仕が基本であってこれを奨励しているのだから、基本的理念に反することにならないか、という意見が相当有力にあったということであります。
キプリングの詩というのは、『狼の群れの力は一匹の狼の力、そして一匹の狼の力は群れの力である』という意味を詠ったものであります。
ロータリアン個人の奉仕は、積もり積もって連合会の大きな奉仕のエネルギーとなる、連合会が世間一般から評価されることは、ロータリアン個人の奉仕の原動力となって作用する、とこのように説いたものであるということです。
ロータリーの奉仕は団体奉仕』か『個人奉仕』かということで議論の対象となった『国際理解の為の教育基金』制度は、国際ロータリークラブ連合の第8代会長レスリー・ビジョンの名演説こよって、ひとまず議論は鎮静し、基金はロータリアン各自の任意の寄付金によって運営されるといぅことに落ち看きました。つまり寄付金は個人の奉仕であって、基金の運営はロータリアンの委託によって、連合会という団体が奉仕するという訳でありましょう。
基金に対して最初に寄付したクラブは、1918年大会の行なわれたカンサス・シティR・Cであって、26ドル50セントであったという記録が残されています。
その後、『教育基金』への寄付は活発ではありませんでしたが、10年後の1928年に至って財団法人の登録が行なわれて、基金の名称を『ロータリー財団』とすることになり、200万ドルの寄付金募集を推進する方針が打ち出されました、しかし実際に『教育基金』の目的とされた青少年に対する国際理解のプログラムが発足したのは、1947年ポール・ハリス逝去の年で『ロータリー財団奨学生制度』として実ったのであります。
1947年は昭和22年に当りますから、既に第2次世界大戦が戦かわれた後のことであり、世界中のロータリアンは近代戦争の惨状を目のあたりにして、国際理解の重要性をひしひしと感じて、1917年のアーチ・クランプの提唱による『国際理解の為の教育基金』即ち『ロータリー財団』に対する関心が漸やく顕著になっていたようであります。
特にポール・ハリスは、第1次、第2次世界戦争を経験して、戦争が人と人との無理解によって起るものであり、それは国益を守らんとする参政者の歪曲された愛国思想と、これを煽動する言論機関の、これまた狭義の愛国心に因するとの信念を、ますます強くもつようになり『ロータリー財団』に対するロータリアンの関心を強く訴えていたということで、財団の強化について遺言があったという説まで伝えられている程であります。
当時のロータリー財団の基金は、せいぜい200万ドル程度のものであつたと思われますが、1978年6月末現在で財団基金は7千2百59万1760ドルとなっています。しかも1年間に1千百92万6774ドルの寄付があったといいますから、けだし隔世の感があります。
1919年の国際ロータリー連合会は、ユタ州のソートレークで開催されました。第1次世界大戦は前年の11月11日に、連合軍の勝利となって終結していましたので、この大会は歓喜のルツボとなったということであります。モルモン教の大会堂を使った会場へは、軍楽隊をひきいて乗り込む参加会員もあり、ホスト・クラブの全会員は、ブルーの上衣に白ズボン、白靴で現われ、ニューオルリンズからの会員は、オーム色の上着と白ズボンといういでたちで、戦争の終結を歓ぶロータリアンの熱気に満ち溢れたということであります。
また、特筆すべき事柄として、ロータリークラブ連台会は事務局の支部を東インド、マレー、蘭領インドに6ケ月ごとに移動する計画をつくったということであります。これは、ロータリーの拡大が漸く東洋方面に及んだということを物語っている訳であります。
更らにこの年に、インター・ナショナル・カウンシルと称する会議が開催されましたが、これは後にカバナ・-・ノミニーを教育する国際協議会となって今日に至るまで続いているのであります。
ロータリーは遂に太平洋を渡って、フイリッピンのマニラに、次いで中華民国の上海、インドのカルカッタにクラブを設立することに成功します。1920年には東京クラブが設立され、同年に欧州では最初のクラブがスペインのマドリッドにできました。
ここで暫くロータリー拡大の足跡をたどることにいたしましょう。
シカゴの次にできたクラブはサンフランシスコR・Cで1908年のことであります。ポール・ハリスが2期目のシカゴR・Cの会長をしていた時、会員のマニュエル・マノズなる人物が、商用で西海岸に行くことを知り、サンフランシスコにロータリークラブをつくることを依頼しました。ポールの『5年間の愚行』中にサンフランシスコでは新聞記者として働いたこともありますから、彼のその時の友人もいたのでしょうが、マニュエルはサンフランシスコで若い弁護士のホーマー・ウッドと知り合い、彼の協力を得てクラブ作りに成功します。
弁護士のウッドは、その後もクラブ作りに熱心になって、翌年の1909年にはオークランドに続いてロサンゼルスにもロータリークラブを設立しました。しかも、どのような手蔓があったのか、東海岸のニューヨーク、ボストンのR・C設立にも手を貸したと伝えられています。