Rotary 国際ロータリー 第2700地区福岡西ロータリークラブ

2024-2025年度
国際ロータリー2700地区 ガバナーメッセージ
「変化につよく、未来をひらく」

クラブ紹介

Introduction

ロータリークラブの歴史

History

第5章
個人奉仕か団体奉仕かの論争起る

ロータリーは個人奉仕が主であって、その真髄は職業奉仕にある。最近は各R・Cが慈善的事業に勢力を集中して、あたかもロータリーは社会福祉事業を請負う慈善団体であるが如き観を呈している.この風潮は改められるべきである。われわれはロータリーの本旨に立ち戻るべきである。という論旨が『個人奉仕』派の主張であります。

これに対して、ロータリーが奉仕の理想を実現するためには、先づ社会一般にロータリーの評価を高め、世間一般の人々からロータリーの掲げる奉仕の理想を理解され、ロータリー活動に好意と共感を呼び起すことが大切である、ロータリークラブが社会福祉事業に関心を払って、これを援助する行動は、今や各方面からロータリー活動の大きな価値を認識されつつある。

これが双方の論争の概略であったといわれています。

さて、このような大論争の起った素因は何かといいますと、それは、当時米国各地のR・Cが勢力的に取り組んでいた『身体障害児』救済の問題であります。

この大論争は次の1923年のセントルイス大会において、Community Serviceに関する大会決議第34号によって決議を見ることになる訳てすが、暫くはこのルネッサンスの経緯について調べてみることにいたします。例によってポール・ハリスの著書によりますと『個人奉仕か、団体奉仕かの論争のクライマックスは1923年大会の会期中に釆た、その時の決議第34号は記念すべき一大決議であって、席捲するが如きあらゆる分裂の危機を解消しさったのである』と記るされています。

ロータリークラブが、身体障害児問題に関心を示したのは可成り長期に亘っていますが、最初にこれに取り組んだのは、1913年頃ニューヨーク州のシラキューズR・Cであったといわれています。次いでオハイオ州のトレドR・Cが行動を起したのですが、そのきっかけとなったのは、会員の1人が街で見るかけた古ぼけた自家製の車椅子に乗った少年から話を聞いて、身体の不自由な子供達が世間から見捨てられ、教育の施設もなく悲惨な環境にあることを知って、クラブ例会において、声涙下る大演説をしたことが全会員の琴線に深く訴えるところがあった、ということであります。

この間題を語る時、最も忘れ難い人物に、エリリアR・Cのエドガー・アレンがあります。

エドガー・アレンは、エリリアR・Cに入会する以前から身体障育児問題に閑心をもって、個人的な活動をしていた人物であったといわれていますが、ロータリアンとなったのも、ロータリーによって身障児に対する救済運動を拡大強化したいとの希望を持っていた為であるとも伝えられています。

アレンは、身障児達からDaddy Allen“アレン父親ちゃん”と呼ばれる程に、この間題に献身的に活躍し、やがて全米各地に身障児問題協会が設立されるという偉業の原動力になったといわれています。

身障児問題協会はアメリカの各州の中でも特に中小の都市のロータリークラブによって設立され或るクラブでは専門の病院から教育施設に至るまで、クラブが主となって運営に当っていたところもあったということであります。しかしながらロータリアン達はそれぞれ企業の経営者であって、日常多忙な者ばかりでありますから、病院や教育施設の運営に専念することは困難な場合が多く、クラブの中には、これが運営の為めに多大の費用を支出することに苦しんでいたものもあったということで、一般的にはロータリーの偉大なる奉仕事業として社会の高い評価を受けたものの、1部では事業の失敗なども起ったところもあったということであります。つまり、今日もロータリーの社会奉仕に取り組む場合の注意事項となっている『継続的な社会奉仕を計画する場合には、中途半端なことにならないように』、『その為に世間の失笑を買うような事態にならないように』という結実が現実に起ったところもあったようであります。


ポール・ハリスの著書によれば、ロータリーは個人奉仕を重要視すべきであり、職業奉仕が奉仕の真髄であるとの主張を強く持っていたのは、主として大都市にあるロータリークラブの会員であったということでありますから、大都市と中小都市の場合では、地域社会のニーズが多少相違しているということもあったろうと思われます。

この間題をめぐる論争に苦悩したエドガー・アレンは、衷情をポール・ハリスに書き送ったと伝えられていますが結局ポールなどの配慮もあって、1923年のセントルイス大会における社会奉仕に閑する決議第34号となったものであるといわれています。

ポール著書によりますと、この大会決議は、テネシー州ナッシュビルR.Cの起草になるもので、決議委員長は同R・Cのウイル・メーニアなる人物であります。

セントルイス大会決議第34号は、その全文が『手続要覧』に掲載されております。

大会決議の全文が手続要覧に載せられているものは、この決議だけであるということですから、R・Ⅰがこの決議を特に重要であると認めている訳でありましょう。

決議は相当長文でありますから、ここにその全文を記すことを省略しまして、その概要を紹介することにいたします。

先づ冒頭に、社会奉仕とはロータリアンのすべてが、その個人生活、職業生活および社会生活に奉仕の理想を適用することを奨励、育成することである。と記されています。つまりCommunity Serviceというのはその当時においてはいわゆる社会奉仕、例えは福祉や慈善に閑わる実践だけではない、もっと広い意味のあったことがわかります。

次に、ロータリアンがすべての生活の揚で、奉仕の理想を適用する時の心構え、即ち奉仕の心について次のように述べられております。

ロータリーは基本的には、一つの人生哲学である。それは利己的な欲求とこれに伴う他人のために尽したいという義務感との間に、つねに存在する心の矛盾を調整し和らげようとするものである。この哲学は奉仕-『超我の奉仕』-の哲学であり『最もよく奉仕する者最も多く報いられる』という実践倫理の原理に基づくものである。

三番目に、ロータリアンはあらゆる機会に奉仕の心をもって対処し、自己の事業の繁栄を築き、また社会を益してロータリアン以外の人にもこれを奨励すべきである。とあり更らに、ロータリーの哲学は単なる主観的、観念的なものではない、奉仕するものは行動を起すべきであると述べております。

いわゆる社会奉仕については、ロータリーの特長を無視したり、絵成の本旨を危くするようなことは避けるべきてあるが、各R・Cは自主的独自の社会奉仕活動を行なう権利があるのであるから、他よりこれに批難を加えたり、干渉するが如きことは遠慮すべきである。

また、各クラブが社会奉仕に取り組む場合の心得として、地域社会住民の積極的支持を受けること、他に同様の奉仕があればこれと重複すべきでないこと、十分に遂行出来るか否かを検討して後に取り組むこと、現存の奉仕機関と競合することなくこれを後援すること、など7項目にわたって、微に入り細をうがった指針が示されているのであります。

ここで、社会福祉一般について、ロータリー創立の当初どんな奉仕活動が行なわれたかをふり返って見ることにいたします。

先づ有名なのは、1907年頃から始まったシカゴ市の公衆便所施設があります。ポール・ハリスによりますと、この奉仕事業は約2年半の歳月を費して完成したということでありますが、シカゴR・Cが先づこの計画を提唱し、市当局や婦人団体などに働きかけて、その協力を得て実行に取りかかる訳です。百貨店組合や醸造組合などは、自分の方で施設するからその必要なし、といって反対に廻ったということでありますが、ロータリァン達が手わけして説得に当った結柴、後にはすべてのシカゴ市民の支持を得たといわれています。


シカゴR・Cの会員クラーク・ホーレイという人は、彼の町に住む牧師さんが、農耕と伝道の為に使用していた馬に死なれて困っているのを知り、或る日の例会で発言を求め、牧師に馬を買ってやることが、如何に地域社会の為になるかを熱心に説き、何時までたってもその話をやめようとしないので、会員はそれぞれ寄付金を出してやっと、ホーレイを演壇からおろすことが出来たという逸話も残っています。

また、1908年の或る大雪の日に、シカゴクラブの1会員が、雪の街頭でみすぼらしい服装の1人の新聞売り子の少年を見かけて、この少年を例会場に伴って釆たところ、帽子を贈る者、自分の看ていたセーターを脱いて看せる者など次々に現われて、新聞は勿論全部買い上げになったという詰も残されています。

『社会奉仕』という言葉はその頃には未だロータリーに生れていなかったのですが、行動としてはシカゴ市における忠誠なる市民として、公共に尽くす精神が奉仕の心として存在していたのでありましょう。

やがてシカゴR・Cには『公共問題担当委員会』が、また『少年活動担当委員会』が設けられて、後から創設される各地のロータリークラブもそれぞれシカゴにならって委員会を設けて奉仕活動をするようになる訳であります。

アメリカでボーイ・スカウトが組織されたのは1912年ということでありますが、この少年の組織に当ってロータリーは全米各地で多大の援助を惜しまなかったということであり、ユース・ホステルの育成についても、各地のR・Cのロータリアン達が重要な活動を行なったということが伝えられております。

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