Rotary 国際ロータリー 第2700地区福岡西ロータリークラブ

2024-2025年度
国際ロータリー2700地区 ガバナーメッセージ
「変化につよく、未来をひらく」

クラブ紹介

Introduction

ロータリークラブの歴史

History

第6章
定款・細則の統一と義務化成る

ロータリーの規約、規定は4種類あります、『国際ロータリー定款』と、『国際ロータリー細則』それに『標準ロータリークラブ定款』と『推奨クラブ細則』であります。

推奨クラブ細則だけは、他の3つの規定に背馳するような改正でない限り、クラブ会員の任意によって改訂することができますが、他の3つの規定は、改正の提案者、それを審議する手順と方法が厳重に規定されております。

この4つの定款、細則を世界中の各クラブに採用するように義務づけたのが、1922年のロスアンゼルス大会であります。もっともその時のものは現行のものの原型であって、さきに記しましたように、1921年エヂンバラ大会において採択された、31名の定款、細則研究グループによって起草されたものであります。

定款、細則を統一し義務化する点については、すんなりときまらなかったようであります、というのは1922年以前に設立されたクラブの中には、必ずしも統一的定款、細則の採用に賛成でないクラブがあったからで、その為にR・Ⅰ理事会は、従来のクラブも統一的定款、細則を採用することが望ましいが義務としなくともよい、ということで妥協したということであります.これに該当するいわゆる特権クラブは今日でも幾つか残っているそうであります。

英国およびアイルランドなどがR・Ⅰ・B・Ⅰ(Rotary internationalin Great Britain and Ireland)と称して或る期間独自の運営をしていたのも、その遠因はこの時の事情によるものであるといわれます。

このR・I・B・Ⅰの独自性については、1927年にも、ロータリーの国際性団結に緩みを生ずる恐れがある、との理由から問題とされ、その後1964年、1966年の各国際大会で討議が繰り返えされていましたが、1968年のメキシコ・シティ大会において、R・Ⅰ・B・Ⅰの独自性はすべて解消されることに決定したのであります。現在もR・Ⅰ・B・Ⅰの名称だけは残っていますが、これはR・Ⅰの中の唯一の地域的管理機構としての名残りをとどめている訳であります。

国際ロータリーは、国家単位あるいは地域単位の管理運営に当る組織の出現は、ロータリーの国際性とその団結に背馳するものであるとの考えをもって、世界のクラブに対してこの考えを理解するよう要望しています。

ロータリーの研究家によれは、ロータリーの組織、運営と、ロータリーの理念、哲学に関する基本的な考へ方は、1923年のセントルイス大会における社会奉仕をめぐる討論を経て、1924年カナダのトロント大会、1925年オハイオ州のクリーブランド大会など、両三年の間に漸く整えられたということであります。

勿論組織も運営の方法も、理念や哲学も一定不変のものではありません。ポール・ハリスも述べている通り『この世界は変遷する用意がなければならない』と、その通りでありまして、現在の国際ロータリーは、当時とは比較にならぬはど大きな変貌と躍進をなしている訳であります。

振り返りますと、ロータリーは先づ親睦と相互扶助に始まりましたが、程なく公共精神を振興し、地域社会の福祉一般に貞献する姿勢を堅持します。あらゆるクラブで、またあらゆるロータリアンが、多種多様の行動を起し、或る時は成功し、また或る時は失敗して、ロータリーの内部から、また外部からも幾度となく称賛を受け、批判されて、やがてロータリーの社会奉仕の哲学と理念を確立するに至りました。

職業奉仕についても、1910年ボートランド大会におけるHe prof-its most who serves bestの提唱を中軸にした職業倫理が異質の文化と伝統を持つ世界のロータリアンの共感を得るところとなります。

更らに、国際奉仕については、第1次、第2次の世界大戦を綻験することによって、ロータリアン達は、国民の間の相互無知と無理酵、その透き間をついて行なわれる宣伝と煽動が戦争の素因であること『戦争は人の心の中に起る』となすユネスコ宣言に共感し国民間の相互理解を説く、ロータリーの国際奉仕の精神を信奉することになります。


最後はクラブ奉仕となりますが、ここでは、ロータリアン達の友愛と親睦の育成がその基本となります。友愛とは利害を超越した間柄であります。また親睦には上下の閑係はありません。ロータリアンは世俗の地位や階級によって左右されるものではありません。すべての会員が平等の立場に立って、人生を語り、職業を語るところに、ほんとうの意味の親睦が生れる。そこが奉仕の心を育てる畑であります。

ロータリーの4大奉仕部門と4つの綱領は、いづれもこの時代に出来上ったロータリーの奉仕の姿勢が結実したものであります。

職業奉仕の金言のひとつ『四つのテスト』は1933年に発表されたものであります。これを作った人は1954-55年度のR・Ⅰ会長であるシカゴR・Cのハーバート・ティラーであります。彼は倒産寸前の或るアルミニューム製品を作る会社の再建を引き受けることになり、再建策について検討している時、この『四つのテスト』の着想を得たといわれています。

彼は先ず会社の重役を集めて、今後会社の運営については、取引関係、従業員との関係は勿論すべて会社の行動を起すに当って、それは真実であるかどうか、それは全開係者に対して公正か、それは好意と友情を深めるか、それは全関係者のためになるか、という四つのテストに照らしてこれに合格した場合のみそれを実行するようにしたいと語り、重役達の合意を得た後に、更に従業員を全部集めて、社長としての決意と四つのテストの趣旨を詳細に説明して、彼等の全幅的な支持を得たので、これを実行に移したということであります。

その結果会社は漸次立ち直り、間もなく幾何かの利益を計上することができるようになり、最終的には優良会社として地域社会の大きな信頼を得るようになったという訳であります。

ティラーの言葉として『テストを応用することによって、予想される利益を放棄するという犠牲もあったが、その犠牲はより能率的な組織、従業員の信頼、顧客の信用によって十二分に償われた』と、あります。

四つのテストは、なにしろ潰れかかった不良会社を蘇えらしたという実績がありますので、各地のロータリアンに普及していったということでありますが、作者のハーバート・ティラ-が1955年度のR・Ⅰ会長に就任した機会に、テストの版権をロータリーに移譲するということになったのであります。

ロータリーでは、四つのテストがロータリアンによって活用され、職業奉仕のよき手法となるように要望しています。勿論ロータリアン以外の企業経営者がこのテストを使用することも自由でありますが、テストの版権がR・Ⅰにあることだけは明らかにされることを望んでいます。

アメリカのデイトナピーチ・シティという町では、町の標語として『四っのテスト』を採用したし、ダラス市の市会でもこれを市の標語とする議題が上程されたこともあるそうであります。1930年代の国際ロータリーは、極めて順調な発展を遂げつつあったといわれます。それは1920年代の終りまでに、ロータリーの組織、運営の制度が整い、ロータリーの哲学、理念が基本的に確立されたので、ロータリーの内部において問題となるような案件が大方解決していた為であります。

しかしながらロータリ-の外では、史上有名を経済恐慌の嵐が、アメリカ経済界を吹き荒れていた時期であります。米国経済界の不況は1929年頃から始ったといわれていますが、ポールのThisRotarianageによりますと、企業不振、例産などが原因で自殺した実業人が次々に現れて、ある都市の如きはその数が一年間に20余名にものぼったところがあるということであります。

ところが、調べによりますと、ロータリアンの経営する企業では、不況による犠牲者は比較的少数で、奉仕第一、利己第二の信用を重視する職業奉仕の実践が、かかる不況時代に大変ものをいったことが実証されたということであります。This Rotarian ageは1935年に刊行されておりますので、米国における経済大恐慌の真只中で執筆されていたものと思われます。


さて、順調に躍進、発展しつつあった1930年代のロータリーにも、幾つかの特筆すべき事柄がありますので、それをたどってみることにいたしましょう。

規定審議会というのは、国際ロータリーの立法機関であります。この事議会が初めて開催されたのは1934年ミシガン州デトロイト大会の時であります。

それまでは、制定すべき案件をすべて大会の代議員によって審議していた訳でありますが、代議員数も年々増加し、審議する案件も毎年増加する一方でありましたので、規則の審議に当る別の機関をつくることが適当であると考えられた結果、国際大会の一部の機関ということで、規定審議会を設けることになったのであります。

創設の初めは、国際大会と同時に同場所で毎年開かれていましたが、後には偶数年度だけ隔年に開催され、それが長く続けられていましたが、1978年度に至って、3年毎にRI理事会の定める場所および時期に開催する、ただし理事会が別に定めた場合を除き、同一国内において2回以上続けて開くことは出来ない、となって、国際大会とは別の場所、別の時期に開催することに改められたことが、手続要覧に記載されております。1935年にはポール・ハリス夫妻が日本を訪れております。フイリッピンで開催された大平洋地域大会に出席する途中日本に立ち寄ったものですが、後で日本ロータリー史を紹介する際に譲りましよう。

この年の大会はメキシコで開かれましたが、ここでロータリーの綱領が現在の四つ文言に集約されました。ロータリーの綱領は初めは、国際ロータリーの網領と、ロータリークラブの綱領の二本建となっていましたが、幾度かの変遷があって1922年のロスアンゼルス大会で、国際ロータリークラブ連合を国際ロータリーと現在のように呼称することに改められた機会に、網領もまたRIのものもクラブのものも同一の文言に統一されて、一本建となったのであります。その後更らに1935年のメキシコ大会で文言に修正を加え、今日の四つの綱領となりました。

1939年には、シニアアクチープ会員制度が実施されています。さきに共同経営者などをアデイショナル会員として入会を認め、1業1会員制度に特例を開きましたが、ロータリーも創立以来30年余りを経過しましたので、1930年に出来たバスト・サービス会員に加えてロータリー歴の長い人の職業分類を開放して、新しい会員の入会を認める制度を作った訳であります。1940年に至って日本のロータリークラブはR・Ⅰを脱退することになりますが、これも後で日本ロータリー史を書く時に譲りましょう。1942年、32年間に亘ってR・Ⅰ事務総長を勤めていたチェスレイ・ペリーが高齢のため勇退することとなり、フイリップ・ラブジヨイが二代目のR・Ⅰ事務総長に就任しました。ベリーは前に記しましたように、組払と運営に抜群の才能を発揮して、ロータリーの基礎造りに大活躍した人物で、文字通りポール・ハリスの片腕となったロータリアンであります。彼が勇退を決意した時の国際大会で、永年の功績を称える為に『名誉事務総長』の椅子が用意されましたが、ペリーは次の如く述べてその栄誉を辞退したと伝えられています。『ロータリアンが、何かの役職につく場合には、義務と責任が生じます。何程かの権威も認められるでしょう。しかしながら役所を去ったものは単に1人のロータリアンであります。わたくしは今後1人のロータリアンとして、ロータリーの奉仕の適を歩きたい』

彼の希望は万場の感激と拍手をもって認められたということであります。1947年1月27日、ロータリーの始祖といわれるポール・ハリスは、79才をもって逝去いたしました。日本にロータリーを開設した米山梅吉は、それから1年前の1946年4月28日に逝去しています。78才であります。

このお二人は共に1868年、即ち明治元年の生れで、その青少年時代における人生経験も、何処か一脈相適する穎似性が感ぜられますが、生れ年が同じで、死なれた年も同じ噴という、何か因縁めいたものを感じる、というのが大方のロータリアンの感想であります。


また日本人で一番最初にロータリアンとなった人、そして日本にロータリーを持ち込んだ人福島喜三次も、1946年9月17日に亡くなっていますので、日本ロータリー50年史でもこのことに触れております。

ポール・ハリスの逝去の年に、ロータリー財団の奨学生制度が実施されたことは、さきに述べました。1948年には、国際ロータリーから職業奉仕の文献として『奉仕こそわがつとめ』が刊行されました。職業奉仕はわかったようでわかりにくい、ロータリーは何を期待しているのか?という議を時々開くことがあります、その疑念に応えたのが『奉仕こそわがつとめ』であります。

この職業奉仕の宝典ともいわれる文献は、1949-50年度のR・Ⅰ会長パーシー・ホジソンが、友人のゼームス・クオッチヤーストの助けを借りて執筆したものであります。

『職業奉仕』は何人といえどもあなたに代ってすることの出来ないものであります。例えロータリーの指導者、講演者、又は委員会であっても、あなたに代って職業奉仕をすることは不可能です。

『奉仕こそわがつとめ』の緒言はそこから始められております。この文献は、職業奉仕について理念を述べたり、解説したりするものではありません。ここに述べられていることは、多くのロータリアン達の実際の経験が集録され事例が中心となっています。

若しも、職業奉仕がむずかしいと感じている人があるならば、この文献にある事例を粗朶にして自分自身の奉仕の炎を焚きつけて下さいというのが執筆者の願望である、と述べられています。

ロータリー文献は、英語から直訳されたものが多く、読みにくいとの評判がありますが、故松本兼二郎さんの訳は平易にわかりやすくなっています。

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