Rotary 国際ロータリー 第2700地区福岡西ロータリークラブ

2023-2024年度
国際ロータリー2700地区 ガバナーメッセージ
「ロータリーを開き、ロータリーを前進させよう」

クラブ紹介

Introduction

ロータリークラブの歴史

History

第9章
朝鮮・満洲・台湾で日本第70地区

大正末期から昭和の初期にかけて、日本のロータリアン達は、国際ロータリーについて勉強した結果、ロータリーについて大きな関心を抱くようになったと思われます。その現われが日本に1地区を設けられたいというR・Ⅰへの要請となったようです。

当時の日本はR・Ⅰの直轄地区で、スペシャル・コミッショナーがクラブの指導と管理をすることになっていました。初代コミッショナーは米山梅吉、2代目が井阪孝、3代目は平生釟三郎という顔ぶれで、昭和2年、3年の平生の時代には内地の6R・Cと、京城R・Cができて7R・Cとなっていました。

そこで、この7R・Cに加えて満州、朝鮮、台湾にR・Cが創立されることを予定して、日本に1地区を設定すべしという要望となった訳であります。

昭和2年10月22日、23日東京でインターシティ・コンファレンス(地 区年次大会に準ずる会合〉というのが開催されて、「会員の選考を一層厳格にすること」と「会員は歯車のロータリー徽牽を必ずつけること」の2つの申合せがあり、別に日本に1地区設定を希望する旨のR・Ⅰ要請が決議されました。

この決議は直ちにR・Ⅰに申入れられましたが、R・Ⅰ理事会は時期尚早ということで、これをことわってきました。ところが次の年のインターシティ・コンファレンスで再びこの間題がとりあげられて、地区設定の要望が益々強くなりましたので、平生釟三郎コミッショナーの『大変な失望と大変な不満足』great dissatisfaction and disppointmentという抗議文となり、R・Ⅰも折れて、1923年即ち昭和3年7月から日本、朝鮮、満州を合せて第70地区の改定となったのであります。

現在R・Ⅰが地区の分割を承認する基準は、大体80R・C以上といわれておりますから、当時といえども7R・C程度では無理難題といわねばなりますまい、第2次世界大戦が終って日本がR・Ⅰに復帰する際に『往時の如き理不尽な要求をしないように』という警告を受けたことが伝えられているのは、この時のことと、日満連合会要請のことを指しているのだということであります。

70地区初代ガバナーには米山梅吉が選ばれ、昭和6年まで4年間を勤めましたが、その間大連、奉天についでハルピン、台北にそれそれR・Cが創立されて、11R・Cとなり、会員数も540名となりました。第1回の地区年次大会は、昭和4年4月27日、28日京都で開催されました。1928年頃から1930年の初頭にかけて、世界は史上最悪といわれる経済大恐慌に見舞われた時期に当ります。ポール・ハリスの著書This Rotarian ageによれば、米国経済界にあっても大企業、中小企業の別なく倒産者が相継ぎ、企業責任者の自殺が数多く現われたと記されております。

また、『ロータリーは1927年に至って、その奉仕哲学を悉く鮮明することができた。今後はその奉仕の理念によって実践に邁進すべきてある』ということがポール・ハリスの見解として述べられています。1928年は昭和3年にあたります。日本ではどんな事が起っていたかといいますと、この年に張作霖の虐殺事件が起っています。満洲事変から支那事変と続く日本の膨脹政策が軍部を中軸にして進展しつつあった時期であります。

R・Ⅰでは日本の強引を要請に負けて、僅少7R・Cしか存在しない地域に第70地区という1地区を設定したものの、日本におけるロータリー・クラブの実情がどのようになっているか知りたいと考えられていたよぅであります。第2回太平洋地域ロータリー大会が東京で開催されることになったのも、日本ロータリーの実体を知るためであったといわれています。

第1回太平洋地域ロータリー大会は、その2年前にハワイで開かれ、8ヶ国から433名のロータリアンが参加しました。東京大会は、太平洋に接する264R・Cに招待状を発し、海外9ヶ国から109名、R・Ⅰ会長サットン夫妻も2人の令嬢を伴って参加し、総人員は568名となりました。


大会は、1928年10月18から4日間にわたり、帝国ホテルを大会本会議場として開催されましたが、午餐会あり、晩餐会あり、仮装舞踏会、歌舞伎観劇などもあり、田中義一首相は官邸でお茶の会の接待、新宿御苑や古河男爵邸での園遊会など華やかな催しがあって、当時の日本社会では珍らしい程の時間の正確さや、諸会合のフランクリーな雰囲気に対して世間では大変話題にしたといわれています。

サットン会長は芝染太郎の適訳でJOAKから国際親書とロータリーについて放送し、100名余りの外人団が京都を訪れて、純日本式の宴会に招かれたり、名物の松茸狩りを楽しんだりして、東京大会に参加した外人は日本に対する理解を深め、ロータリアン同士の暖かい友情に結ばれる、という成果をあげることができたということであります。

東京の太平洋地域大会に出席したサットンR・Ⅰ会長は、朝鮮から満洲に足を延ばして1928年11月の大連R・Cの発会式にも立ち合いました。大陸では大連に次いで奉天R・Cが1929年3月に誕生し、ハルピン、新京と続く訳であります。

日本が国際ロータリー第70地区となって、第1回の大会を開いたのは1929年4月のことであります。京都市の華頂会館が会場となって会員家族合せて385名が参加したと記録に残っています。

この大会ではHe prof its most,Who Serves bestという職業奉仕の標語について討論が行なわれたということですが、神戸R・Cの会長松万幸次郎が、米山ガバナーとService Above Selfの語意について論議したことも伝っています。

また、米山ガバナーが「職業倫理訓11ヶ条」について研究しているという大連クラブの古川丈作の報告を聞いて大変激賞したのもこの大会であったということです。日本のロータリアン達も漸くロータリーの本質を把握して、活動を開始しつつあったというべきでありましょう。

京都大会の晩餐会は京都ホテルで開催されましたが、この会場に現われた京都R・Cの面々は全員日活から借りた狩衣と烏帽子といういでたちで、参会者をびっくり仰天させたという挿話が残っています。1930年はロータリー創立25周年に当るので、その年の国際大会はロータリー発生の地であるシカゴ市で開催されています。そのあと25年目の1955年には50周年が、矢張りシカゴで開催されており、1980年には75周年記念大会がシカゴで開催されることになっているのはご存じの通りです。

25周年の記念大会には、58ヶ国から1万千8人の登録があって、ロータリー始って以来の記録となりましたが、日本から東京R・Cの名誉会員であった徳川家達公が出席して『民族の勃興』と題して、日本の成長について英語の演説をしたということであります。伝えられているところでは徳川公が大会場からホテルに帰る道には黒駄馬隊の儀仗がついて、君が代が奏されたということてすから、16代徳川将軍という貴賓に対してアメリカ流の敬意を表せられたものなのか、日本におけるロータリーの発展に拍手を送ったものなのかと、当時のロータリアンの語り草となっていたようであります。

当時世界における会員数は約15万、臼本には10クラブで520名の会員がおりました。

第2回目の70地区年次大会は、1930年5月神戸の商工会譲所を会場として開催されました。R・Ⅰから会長代理として派遣されて釆たのは、初期ロータリーの奉仕理論形成に頁献したFrank・L・Mylhollandという人です。彼はポール・ハリスから数えて5代目の会長を勤めた人物で、大会の講演では「奉仕の理想に結ばれた実業人専門職業人の、世界的な友情をもって国際間の理解と善意と平和を推進しよう』という点を強調して、その理路整然たる雄弁をもって参加者を魅了し、多大の感銘を与えたといわれています。


マルホランドは大会終了後、朝鮮、満州にも足を延して、各地のロータリアンに対して、熱心にロータリーの奉仕の理想を解説して廻ったのであります。また、ロータリー酵説の第1人者であり、関東大震災当時のR・Ⅰ会長であったガイ・ガンデイガーもこの時日本を訪れているのであります。日本のロータリアンもこの頃から漸くロータリー理念の真髄に触れることができたというべきでありましよう。

大阪R・Cの土屋大夢が『ロータリー以前の偉人なるロータリアン』と適して、二宮尊徳の業績とその報徳精神を紹介したのもこの頃のことであります。

第3回年次大会は1931年5月横浜で開催、第4回は大阪、5回東京、6回名古屋、7回京都、8回神戸と続きますが、第9回は佐藤昌介ガバナーのホームクラブのある札幌で開催されています010回目は外地に飛んで京城で開かれ、11回目は1939年4月松本健次郎ガバナーのもとに、別府で開催されましたが、日本における1地区の年次大会はこれが最後で、この年R・Ⅰは日本の希望を容れて、日本内地と朝鮮、満州、台湾を一括してる地区〈70、71、72)に分割し、さらにその連合会をつくることを黙認し、自治地域の適用を評したのであります。

その経線については次回以降に述べることに致しましょう。

この期間は、日本の激動期に当ります。国際政治の面では日本の大陸進出が開始されて、世界的な注目を浴びる時期であります。

ロータリーの関係では、その奉仕理論に対して深い閑心と同調を覚えながらも、英米で勃興したロータリーの組織の中に組み入れられることに一抹の躊躇を感じていたと思われます。この辺からロータリーの日本化、独立自治の考え方が現れて来たように思われます。

ロータリーの4つの綱領の1番目は、心の友達を広げていくこと、2番目は自己の職業の道徳的水準を高め、且つ品位あらしめることとあり、3番目は良き市民、良き家庭人、良き国民となって地域社会に要献すること、4番目は善意と友情溢れる国際人となって平和を推進すること、ということになっております。

特にロータリアンはその所属する国家に対して忠誠を尽くすことが強調されていると共に、人穎同胞としての立場から世界の平和と人穎の幸福をも考慮するように奨励されております。そのことは、ポール・ハリスの戦争観や国家観を示す幾多の文献に現われているし、また手続要覧その他ロータリーの公式文献にも明瞭にされているところであります。

昭和10年代における日本のロータリアンは、ロータリーの奉仕の理想と称する理念について、漸くその真髄を会得しつつあったと思われますが、この時代の日本一般の風潮は、欧米諸国、殊に英米による白人優位の世界支配態勢に対して強烈な反感を感じつゝあったというべきでありましょう。何かといえば直ぐに親英米派などと称されてひんしゅくされるような時代であったのも事実です。

ロータリー・クラブは政治の実権を握った軍部によって、親英米派の巣窟であるかのように目されるようになりました。

東京三越で内務省と陸海軍省の後援によって、各種秘密結社のスパイ活動展示会があり、その結社の中にロータリーが含まれていたのは昭和12年〈1937年〉のことであります。

ロータリーの奉仕の理念は立派なものである。しかしながらその組織の中心はアメリカにあって、そこから指導と管理が行なわれている。この組織の在り方に何等かの改善を加えなければ、日本におけるロータリーの存在は危くなる。そう考えるロータリアンは段々その数を増して釆たというべきでありましょう。その時、ロータリーの組織をよくよく研究してみると、英国におけるロータリーはR・Ⅰ・B・Ⅰと称して独自の組織を持って運営されていることを知りました。

ここに至って日本のロータリアン達は、ロータリーを日本で生かす方法として、自治地域の適用をR・Ⅰに要請し、1939年のR・Ⅰ理事会がこれを認容する訳でありますが、日満ロータリークラブ連合会と称されたこの自治運営機構は、1940年5月横浜で第1回大会を開催しただけで、日本はロータリーを離脱することになります。

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