Rotary 国際ロータリー 第2700地区福岡西ロータリークラブ

2024-2025年度
国際ロータリー2700地区 ガバナーメッセージ
「変化につよく、未来をひらく」

クラブ紹介

Introduction

ロータリークラブの歴史

History

第10章
日満ロータリーと日本ロータリー再建

日満ロータリークラブ連合会は3地区にわかれていました。名古屋以東の20R・Cが第70地区、名古屋以西と台湾を加えた19R・Cが第71地区、朝鮮、満洲の3R・Cが第72地区という訳であります。

ロータリーを秘密結社と誤解し、スパイ活動団体と誹謗する軍部の偏見をとくために、東京R・Cの松井茂は貴族院において政府の見解をただし、当時の有田八郎外相から『ロータリーは国際親善に責献している立派な体である』という答弁を得ましたが、そのころには各地のR・Cに対する軍部方面の干渉や圧迫はだんだんひどくなって、例会に憲兵や警察の特高係がしばしば列席を求めたり、例会の卓話などの内容をあらかじめ警察に届け出ることを要求されたりして、クラブも暗い空気におおわれて精彩を失ってしまうことになりました。

このような状況下にあっても、なおロータリーが本来持っている奉仕の精神やその理念を良しとなす人達は多く、国際ロータリーを万国赤十字社のような組職にして、日本では日満奉公会とか、東亜奉公会などの如き名称によって、連合体の独立自治機関となっては如何?、というような意見が真剣に唱えられたということであります。

すでにその頃には、ドイツの42R・C、オーストリアの11R・C、イタリアの34R・Cが当局の解散命令を受けて消滅してしまっていました。

平沼内閣が『複雑怪奇な国際情勢に対処できない』として総辞職するという時代であります。

米山梅吉が憲兵隊に呼ばれたという風説もあったそうですが、これは間違いであったようです。

R・Cは1937年の理事会で、国際有事中のロータリー活動として『いかなる団においても国際有事の際に、その団のロータリークラブが外国との接触が不可能となるか、若しくは不適当となった場合には、その国のロータリアンは常にその国の忠良なる愛国者であることを第一義として、国際有事の期間ロータリーをその国に保存する可能性があり、適当と思われる方策をとる義務がある』と決定していました。

米山梅吉はじめ日本ロータリーの長老達は、何とかしてロータリーの日本化を図って、これを存続したいと考えて日満ロータリー連合会という自治独立の機構を考えたと思われますが、結局は軍部の圧迫によって稔らず日本のロータリークラブは次々に消滅してしまうのであります。

この『ロータリーの歴史』も、あと2回で終らなけれはなりません。軍部の圧迫に対して、日本のロータリアン達がロータリークラブの存続を画していろいろと動いた事蹟や、解散後も例えば東京、京都の水曜会、大阪の金曜会、神戸の木曜会、福岡の清和会などのように、名称を変えて依然として会合を開いていたこと、しかもそれが日本の全国各地で同様な懇親社交のクラブとして存在した経緯など、語らねばならない歴史は枚挙にいとまないほどありますが、既にその紙面もありませんので、1949年3月23日、即ち、第2次世界大戦集結後、日本のロータリークラブが再び国際ロータリーに復帰した話題にうつりましょう。

時のR・Ⅰ会長は、豪州メルボルンR・Cのアンガス・ミッチェルでありました。彼は1937年3月、国際親善視察団の団長として来日したことのあるロータリアンで、日本のR・Ⅰ復帰は時期尚早であるなどの意見のあった理議会を説得して実現に漕ぎつけたといわれています。

東京、京都、大坂、名古屋、神戸、福岡、札幌の7クラブが先ず認承されて、国際ロータリー第60地区と称されました。

ミッチェル会長が後になって語ったところによると、戦争中日本のロータリアン達が、各地で例会を開いてロータリーの良き習慣を守っていた事実は、R・Ⅰ理事会から大変好感をもって迎えられたということでありますが、ただ一つ、R・Ⅰの管理から独立して、日本独自のロータリー組職機構を役立しようとの企てに対しては厳しく批判されて、復帰の際このような企てを再び操り返すことのないように念を押されたということであります。


復帰後の初代ガバナーは東京クラブの手島知健であります。その年のうちに横浜、今治、高知、広島、西宮、徳島、岡山、函館、小樽、熊本、新潟、四日市、岐阜の13クラブが承認されています。

翌1950年、東京には2つのアデイショナルR・Cが出来上りました。東京南と東京北であります。これが日本におけるアデイショナルR・Cの初めであります。われわれの福岡西R・Cも福岡クラブのテリトリーの割譲を受けて設立されたアディショナルクラブでありますが、日本で14番目、九州では初めて設立されたアディショナルクラブとなっております。R・Ⅰでは日本ロータリーの復帰といわず『再建』と申しているそうてすが、事務総長であったミーンズがミッチェル会長の意をうけて復帰に大変功績のあったことはよく知られています。彼は勲3等旭日章を射られております。

再建された日本のロータリーは、極めて目覚しい発展を遂げました。復帰の翌々年即ち1951年〈昭和26年)には、滋賀県大津R・C以下22のクラブが一挙に誕生しましたが、その次の年には17クラブ、その翌年には22クラブ、次の年は35クラブという風に躍進また躍進、少い年で30程度、多い年には70クラブ、80クラブが1年間に誕生するという有様で、1970年には83クラブが誕生するという記録をつくってしまいました.かくして日本は現在米国に次いで、クラブ数においても会員数においても、世界第2位のロータリー国になるにいたったのであります。

このような情況の中で、R・Ⅰは遂に1961年5月に東京において国際大会を開催することを決定致しました。しかもこの国際大会には世界74ケ国のR・Cから2万3366名というロータリアンが参加して、それまでに行なわれた大会の記録まで破ってしまうという盛況を見たのであります。

この大会の最終日に、印度カルカッタR・Cの会員Nitish.C.Lahar-ry博士がR・Ⅰ会長エレタトとなりましたが、博士は就任挨拶の中で『払私はアジア人として最初のR・Ⅰ会長に適任せられるが、若しも東京R・Cの小林雅一が病気でなかったら、この栄誉は彼小林に与えられるものである』といったと伝えられております。躍進し発展する日本のロータリーからR・Ⅰ会長が逮ばれるという情況が、既にR・Ⅰの内部に醸されていたというべきでありましょうか。

東京の国際大会には、天皇、皇后両陛下のご陸席を賜っておりますが、天皇陛下のお言葉の中に、ロータリーについて次のようなことが述べられていたということであります。

『ロータリーの会員が創立以来奉仕と友愛とを目標として人種、宗教、国境をこえて友好を重ね、国際理解を深める上に多大の寄与をしてきたことは喜びにたえません。今回この大会がはじめてアジアで開かれ、かつ参会者が当初の予想をはるかに越えたことは、日本に対する関心と友情のあらわれとして誠に意義深いものがあります。わたくしはこの大会がロータリーの輝かしい歴史と、高い理想のもとによくその成果をおさめ、会員相互の友情と信頼がますます深まるとともに、国際間の協力を推進して、国民ひとしく要望する世界の永久の平和の確立に費献することを切に希望します。

東京大会の運営に閑しては、参加ロータリアン達から非常な賞賛を得たということであります。

この稿も今回をもって終了致します。75年のロータリーの歴史をふり返って書き縁ったつもりでありましたが、冒頭にも述べました通り、これはロータリーの歴史の骨組みを記したに過ぎません。否、その骨組みも、はんの一部分を誇ったに過ぎないのではないかと思われます。

ロータリーが今日の組織と機構を作り上げ、今日受け継がれている思想と理念を整えるには、まだまだ多くの事績を解説する必要があると考えます。特にロータリーの理念は一人の優れた人物がいて、その人物の頭脳によって考案されたものではなく、多数の熱心なロータリアン達の奉仕の実践の積み重ね、その試行錯誤を経て造成されたものであります。従って今日行なわれている『四つの綱領』は勿論『四大奉仕部門』の思想と理念が確立するまでには、ロータリーの内部の批判と討論が繰り返えされ、またロータリーの外部からの批判もこれを素直に受け入れて、幾度かの変遷、激烈なる革新が行なわれたのであります。このことはロータリーの創建者、始祖といわれるポール・ハリスが彼の著書に明確に強調しております。


初期ロータリーを批判した英国の評論家チェスタートンやバーナード・ショウも、後にロータリーの良き理解者となって『ザ・ロータリアン』誌の寄稿家となったといわれていますが、或る時期には宗教をめぐる誤解からバチカン法王庁が『聖職者のロータリー会合の出席を禁止する』との布告を出したことがありましたが、これもパワロ2世法王の時代に至って、その誤解が氷解されるに至りました。

最後に、ポール・ハリスと米山梅吉の不思議な因縁について=ポールは、他人への思いやりを生活信条としていたということですが、米山の生活信条もまた同様であったことがその行蹟に明らかであります。又彼等は同じく父母との嫁が薄いことが伝えられております。ポールは1868年4月19日に生れましたが、米山梅吉もまた1868年即ち明治元年2月4日出生で、米山の方が2ヶ月兄貴になります。更らにポールの死は1947年1月27日で、米山は1946年4月28日死去で、米山が約1年早く亡くなっていることになりますが、お二人は大体同じ時代に生きた優れた人物であったということができると思います。ロータリーの創始者と、日本ロータリーの創始者の不思議な関連をもって最後の章と致します。

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