2024-2025年度
国際ロータリー2700地区 ガバナーメッセージ
「変化につよく、未来をひらく」
Introduction
History
今まで記述して来ましたのは、国際ロータリーの75年に及ぶ活動の、ほんの一部分であります。ロータリーの歴史の骨格だけを説明したに過ぎません。ロータリーにはまだまだ多くの重要な事額がありますし、その奉仕の業績は極めて豊富てあり、多彩であります。従ってそのすべてを解説するためには、今までの数十倍、否数百倍の紙面を必要とし、これを書籍に編集するとすれば一冊を1000頁と仮定しても、数十巻あるいは数百巻を要するのではないかと思われます。
残された紙面も僅少となりましたので、これから日本ロータリー発展の歴史を調べることにいたしましょう。
日本人として初めてロータリアンとなった人は福島喜三次であります。彼は米国テキサス州ダラスに参った三井物産の子会社サウザン・コットンという会社の支配人であった時、自分の会社の独乙人ウイリアムスという人物の紹介で(或はアデイショナル会員として〉ダラスR・Cに入会しております。入会のたしかな年月日は明らかでありませんが、福島は1919年に東京の本社え転勤を命ぜられており、紹介者のウイリアムスは第一次世界大戦に際して、米国が独乙に対して宣戦布告を行った1916年頃に帰国したといわれていますから、福島のダラスクラブ入会はそのあたりであったと想像されております。福島は日本に帰国するに当り、ダラスR・C会長の推せんもあって国際ロータリーから、日本にロータリークラブを創設する役目を仰せつかりました。今でいう特別代表を依嘱されたということでありましょう。
東京に帰った福島は一応クラブ創立について動いてみましたが、帰国挨拶廻りなどで時間を費し、また三井物産における彼の立場からみて思うように進まないので、ダラス時代に知己を得た三井銀行常務取締役であった米山梅吉に会って、ロータリークラブ創立について、その斡旋役になって戴きたいと願い出たところ、米山はこれを承諾したといわれています。
米山は1917年日本から米国に派適された、目賀田男爵を団長とする財政調査団の一員として渡米した際に1918年1月にダラスに立ち寄りましたが、その時三井系列の会社にいる福島喜三次を識り、ロータリークラブの話なども話題に上ったといわれています。
一説では福島のゲストとしてダラスR・Cの例会に出席したとも伝えられます。他人の為に尽すことを喜びとする米山の人と成りから考えて、ロータリーに対して相当強い関心と興味を持っていたのてはないかと思われます。
東京にロータリークラブを作るには期限が切ってありました。それは1920年の6月末日までということでしたが、それまでに事は運ばなかったので、福島喜三次はR・Ⅰ〈当時は国際ロータリークラブ連合会〉に手紙を出して、米山梅吉を紹介すると共に期限の延期を要請しましたところ、R・Ⅰでは福島の申出を承認すると共に、福島の協力者として当時横浜にあった、パシフィック・メイル・ステイームシップの支店長ウイリアム・ジョンストンを指名してまいりました。
そこで、米山は会員選考を、福島が事務を、ウイリアムはR・Ⅰとの連絡に当って、8月に18名の候補者を集めて説明会を開き、9月1日に発起人会、10月20日には銀行クラブに24名を集めて創立総会を開き.日本におけるロ一夕リークラブ第1号が誕生したのであります。R・Ⅰの認証は翌年4月1日で登録番号855ということであります。
時の国際ロータリークラブ連合会の会長はエスタス・スネデイコール、幹事はチェスレイ・ペリーです。
東京R・Cのチャーター・メンバーは、深井英五、藤野正年、藤田譲、藤原俊雄、堀越書重郎、星一、井上敬治郎、磯村豊太郎、伊東米次郎、岩井重太郎、樺山愛輔、梶原仲治、塵敬治郎、北島 卓、倉池誠夫、牧田環、長野宇平治、小野英次郎、佐野善作、清水打吉、対島健之肋、和田豊治、米山梅吉、福島喜三次、翌年の理事会で朝吹常吉、富岡恒次郎、相馬半治、田原 豊の4名がチャーターメンバーに追加と決定しました。
会長米山梅吉、幹事福島喜三次、理事には伊東、樺山、小野の3名が選ばれました。
この顔ぶれは、当時の東京における一流の実業人ばかりであります。福島は唯一のロータリー経験者ではありますが、この顔ぶれの中ではたいした発言も出来ず、そのせいもありましょうか、月に1回第2水曜日の例会が11月に開かれただけで、12月は年末多忙ということで、翌年1月もまた正月だからという理由で休会となり、第2回目の例会は1921年即ち大正10年の2月に開かれたということであります。その年3月に大阪支店に転勤した幹事の福島は3度しか例会に出席しなかったそうであります。目本のロータリーがエリートの集り、などといわれるのは、この豪華メンバーで発足したせいもあるかもしれません。
米山梅吉は東京R・Cの初代会長であり、また日本における初代ガバナーでもあり、日本人として最初にR・Ⅰ理事に選ばれた人物でもありますから、日本ロータリーの創始者ということで、その業績も沢山の記録が残されています。個人米山についても、ユーモア作家の同郷人佐々木邦の手になる米山梅吉伝などに、詳細な人物像が描かれておりますが、福島喜三次に関するものは余り見かけません。日本にロータリ-を誘致した功労者となると、福島こそその第1人者であったというべきかもしれません。彼が東京クラブ創立の特別代表の立場にあったことはR・Ⅰの記録にも残っているということであります。東京R・Cの初代幹事であった福島は、井物産の大阪支店に転勤となってからも、大阪R・Cの創立に活躍し、初代の幹事となって星野行則会長を助けて大阪R・Cの基礎を築いたのであります。
福島喜三次は佐賀県有田町の出身であります。有田R・Cの蒲原権という方が『福島喜三次伝』を執筆しておられますので、この本によって福島の人物像を紹介しましょう。
喜三次は明治14年10月10日、喜平の6男として生まれました。母は伊万里の酒造家吉永鉄蔵の長女タツで、父の喜平は喜三次が2歳の時に亡くなったといいますから、6人の子供を育てたお母さんの賢母ぶりは大変評判になっていたといわれます。
喜三次は小学校時代収支級長を通したほどの秀才で、長崎商業学校時代もまた主席を通して辺地の学校からは難関といわれた東京高商(一橋大学の前身〉に入学しています。
東京高商の卒業は明治37年・外交官で外務大臣にもなった佐藤尚武、三井物産の大御所となった向井忠晴は常に席順を争った同級のライバルであったということであります。
一橋を卒業すると直ぐ向井と共に三井物産に入社、翌年はニューヨーク勤務、それからオクラハマ、ヒューストンを経てダラスに赴任する訳ですが、学校時代特に優れていた英会話の力は米国各地を廻っている間に、ますます磨きがかかり、誠実にして積極的な手腕家として取引先から絶大なる信用を得るに至ったといわれています。日本人として初めてロータリアンに推せんされたのも、その語学力と人間性を高く評価されたからでありましよう。
ダラスR・Cの会員として米山梅吉とのめぐり会いは奇しき因縁というべきでしょうか。
日本でニ番目にできたロータり-クラブは大坂R・Cであります。福島喜三次は東京R・Cの例会に3回出席しただけで三井物産の大坂支店に転勤となりましたが、そこで星野行則を識り、ロータリーについて語り合う機会を持ちました。星野がどんな仕事をしていた人物か手元に資料不足で調べがつきませんが、兎も角もロータリーについて大変興味を持って、1921年〈大正10年〉英米訪問実業団の1員となって渡米した際、シカゴの国際ロータリー事務局を訪れ後のRI事務総長チュスレイ・べリーに会ってロータリーに関する話を聞き、大阪にクラブをつくることを委任されたということであります。
帰国した星野行則は、福島喜三次の協力を得て1922年11月に、中之島の大阪ホテルで10名による準備会を開き、その月の17日には25名を集めて創立総会という急ピッチで大阪R・Cが誕生しました・チャーター・メンバーは、
浅井義明、江崎政忠、藤沼庄平、長谷錠五郎、平生三郎、星野行則、伊藤忠兵衛、片岡安、片岡直方、木村清、本間瀬策三、北田内蔵司、清瀬一郎、児玉一造、小林一三、前田松苗、村田省蔵、坂田幹太、開一、下村耕次郎、進藤嘉三郎、葛原操、高石真五郎、八代別彦、福島喜三次
以上25名で会長星野、副会長村田、幹事福島、会計八代、理事には平生、木村、片岡安が選はれ、翌年2月10日誌承、登録承認番号は1349番ということでした。(現在は登録番号制は廃止になっています。)
この顔ぶれは、東京R・Cの場合と同様に大阪財界の一流どころのようです。阪急王国を築いた小林一三や、後に閣僚になった村田省蔵や平生飢三郎などが加わっていることを見ても想像がつきます。ただ、ここに記禄にとどめなけれはならないことは、今日でも存在する現象でありますが、関東方の実業人と、関西方の実業人の気質に相違があって、東京R・Cはエリート型、大坂R・Cは庶民型といったものがあったといわれております。
福島喜三次夫人朝子さん(外交官杉村健太郎令妹)が未亡人となられてからの話として伝わっている言葉に「東京R・Cでの主人は下っ端の走り使いで、皆さんは将官級の方々ばかり、主人は尉宮級というところでしょう。大阪R・Cでは水を得た魚のように楽しそうにロータリーの仕事をしていたように思います」
また、大阪は奉仕の理論派で、東京は奉仕の実践派だったという説も伝えられています。
東京R・Cは創立の時から、月に1回の例会を引き続き2回も休会にするぐらいでしたから、その後も例会の欠席者が多く、この侭では潰れてしまうのではないかと思われるような時期もあったそうですが、大正12年に起った関東大震災を契機にして、俄然ロータリー活動が真剣に活発に行なわれるようになったといわれています。
大震災の報が世界に伝わりますと、直ちに国際ロータリーから会長ガイ・カンデカーの見舞電報とともに、2万5千ドルの救援金が送られてきました。更らに英、米、カナダなど503のロータリークラブから次々に救援金が届けられて、総額8万9千ドルに達したのであります。
この対応の迅速さ、ロータリーの友愛と奉仕が本物であることに、東京R・Cの面々は吃驚仰天したということであります。
東京R・Cは早速11月14日の例会で、ロータリーの救援金の使途などについて協議すると共に、毎月1回の例会を、毎週1回正しく開催することに定款を改めたということであります。前に述べましたが1922年ロスアンゼルスにおける国際大会で、その時以降に創立されるR・Cは、大会で決議された定款細別の遵守を義務づけられました。東京R・Cの創立はそれ以前でありますから、義務とはなっていなかったのてすが、会員の自発的意思によって、新しい定款細別を採用することになったものでしょう。
ロータリーの救援金は、関係当局とも連絡して倒壊した小学校の改築、補修費などに使われましたが、震災の為に孤児となった不幸な子供達を収容していた東京菰児院に、1梗を新築してロータリー・ホームと名付け、東京R・Cの社会奉仕として後々まで誇りとされたのであります。
関東大震災がきっかけとなって、日本のロータリアン達のロータリー理念の研究が盛んになる一方、拡大の方にも漸く活動が始まり、1924年〈大正13年〉8月13日には神戸R・Cの創立、同年12月17日には名古屋R・C、翌年の9月28日に京都R・C、昭和2年6月1日には横浜R・Cがそれぞれ創立されました。
その後5年間の停滞があって、昭和7年に広島、札幌、昭和8年に福岡、小樽の順に拡大しますが、この5年の停滞は震災手形の処分から銀行の預金取付騒ぎが起り、モラトリアムが布告されたり、浜口雄幸狙撃事件、井上準之助、団琢磨暗殺事件などで財界不安定の時期にあったからだといわれています。