Rotary 国際ロータリー 第2700地区福岡西ロータリークラブ

2024-2025年度
国際ロータリー2700地区 ガバナーメッセージ
「変化につよく、未来をひらく」

クラブ紹介

Introduction

ロータリークラブの歴史

History

第2章
ロータリーのルネッサンス始まる

ポール・ハリスは自ら立候補して、シカゴR・Cの第3代目の会長に就任しました。1907年のことです。

この年から1913年迄の7年間は、ロータリーにとって極めて重大な意義深い時代を迎える訳であります。

例によってポールの著書 This Rotarian age をひもどきますと『ロータリーのルネッサンスの足音は1906年の後半頃から聞こえはじめて、1907年に入って、その響はようやく高く、1913年まで騒擾は継続した』となっております。何故ルネッサンスが起ったのか?

ロータリーの出発は「親睦」と「相互扶助」が目的であります。親睦とは会員同志が兄弟、親類のつきあいをすることであり、相互扶助とは会員同志が商売を助け合うことであります。その頃は未だアデイショナル会員とか、シニア会員、バストサービス会員などという制度はありません。純粋に一業一会員制度が確立していたのであります。従って会員同志が商売の上で助け合うことは自然に行なわれていました。スタティスティシアン(Statistician〉という係りがあって、会員同志の取引きの記録をとって、例えば洋服屋のハイラム・ショレイの店から、何某と何某が洋服を何者、何程の価格で買ったとか、シルベスター・シールの店から石炭を何屯買った。などの記録が残っているほど、会員間の取引きは厳しく義務づけられていたのであります。つまり会員が増加すれば会員相互のお得意様が殖えて会員同志の商売が繁盛する仕組みになっていたのであります。

そこへ、前に述べました「シカゴ市に対する公共精神の推進」という目的が加わって釆たのが契機となって、会員の間に「実利派」と「奉仕派」ともいうべき二つの派閥が出来ることになったのであります。実利派は現状維持派、奉仕派は革新派といって支障なかろうと思われます。

革新派の頭目はポール・ハリスでありますが、印刷屋のハリー・ラグラスとか、チャールズ・ニュートンなどは「中間派」で両方の意見の衝突を緩和するために活躍したといわれています。

奉仕派は『社会一般の向上はシカゴだけに限定する必要はない、ロータリーをアメリカ全国に拡大発展すべきである』といって奉仕に加えてロータリーの拡大を強く主張提唱するようになり騒擾はいよいよ頂点に達することになって来るのであります。

ロータリーは『親睦』と『相互扶助』がすべてであると主張する現状維持派と、否、その二つに加えて『奉仕』と『拡大』を推進すべきてあると主張する革新派の論争が、如何に熾烈てあったかは、ポール・ハリスが『ザ・ロータリアン』誌の前身である機関誌創刊号に執筆した『RationalRotariansm』を読めば明らかであります。この文章は昭和52年度2月号の『ロータリーの友』に掲載されております。

また、ポール・ハリスは『我が希望を理解してくれない友達の冷淡な態度ほど、私を淋しく悲しませたことはない』といって、当時の彼の苦境をThisRotarianageにめんめんと書き綴っております。

親睦からロータリーが始まる、ということは今日もなおクラブ運営の基本であります。しかしながらロータリーの親睦は、共に遊び共に洒を飲むだけで終る親睦に止まってはならないといわれております。酒席を共にし、遊びを共にしている間に会員は相互に胸襟を開いて語り合う、それも建て前の話題のみに終始することなく、お互いが本音を披暦して人生を語り、自らの事業の綻験、事業の実状を話し合うまで溶け込み合った親睦が期待されているのであります。

そのような親睦の交流があって会員がお互いに『社会生活における幸福は、他人への思いやりと助け合いにある』となすロータリーの奉仕の心を感じとらなければならないとされているのであります。

かかるロータリーの運動をシカゴだけにとどめるべきではないということで『ロータリーの拡大』が提唱されたという訳であります。


1908年に至ってポール・ハリスは再び会長に立候補して第四代目のシカゴR・C会長に就任しました。

この年ロータリーにとって極めて重要な二人の会員がシカゴR・Cに入会してきました。一人はアーサー・フレデリック・シェルドンといい今一人はチェスレイ・ペリーであります。シェルドンはミシガン大学の経済学部経済学科を優秀な成績で卒業し、書籍販売を職業分類として入会した人物、また、べリーは組織能力、事務才能において抜群の経験を持った人物で、図書館管理者として入会して釆ました。

先ず経営学に一家言を持ち、能弁家で情熱漢であるシェルドンが『奉仕』『拡大』を唱えるポール・ハリスに傾倒して、たちまち会長の信頼を得て、シカゴR・Cの『宣伝拡大委員長』という新たに設けられた機間の責任者に抜擢されましたが、こゝにロータリー創立以来最初の紛争が起ることになります。

宣伝拡大委員長に就任したアーサー・フレデリック・シェルドンは、早速に全米各地の状況を調査してロータリーの拡大に自信を得ましたので、持ち前の熱弁をもってシカゴR・Cの会員達を説き廻りました。当時のシカゴR・Cは236名の会員を擁していたそうですが、親睦と相互扶助の現状維持派の勢力が強く、猛烈果敢な理詰めのシェルドンの論法は、かえって現状推持派会員のヒンシュクを買う結果となり、間もなく例会の多数決によってシェルドンは『宣伝拡大委員長』を罷免されることになってしまいました。その為もあったのかポール・ハリス会長までが、病気を理由に会長の任期中途で辞職するという事態に発展してしまいました。

この事実に照らしても、その当時の論争がロータリーのルネッサンス的であったことは明らかであります。

ポールの辞めたあとの会長はハリー・ラグルスに決定しました。ラグルスは印刷屋さんでポールの友人です。入会もポールの紹介という関係ですが、中間派の立場をとっていたということであります。彼はロータリーに歌をうたう習慣を持ち込んだ人物です。会員の論争が激しくなってくると『諸君!歌をうたおうではないか』といって自ら音頭をとって、唄い始めたということですが、それが激論を緩和する役目を果して、会員の親睦を取り戻すのに大変効果があったと伝えられています。

ラグルスは90才に近い長命で晩年は米国西部のサンフランシスコR・Cやロスアンゼルス方面の沢山のR・Cの名誉会員に推薦され、卓話などに招かれていたということですが、1959年10月23日にキャシードライル・シティR・Cの卓議に出席する途中で死去したと伝えられています。

ラグルスはシカゴR・Cの会長になったもののポール・ハリスとの友情を失った訳ではありませんので、同じ中間派のチャールズ・ニュートン(第6回例会の時昼食をして遅刻した人物〉などと相談して『宣伝拡大委員会』の存続を決めて、委員長にチェスレイ・べリーを起用しました。

チェスレイ・べリーは前にも紹介しました通りの組織、事務能力に優れた才能をもった人物ですから、シカゴR・Cの現状をつぶさに検討して、ロータリー拡大に専念する別個の機関を設立することを思い付き、ポール・ハリスなどともひそかに相談してその計画を推進しました。この機間こそ国際ロータリー中央事務局の前身である『全米ロータリークラブ連合会』となる訳であります。

ハリー・ラグルスは1909年から1910年まで会長としてシカゴR・Cの運営に当り、会員の結束と融和の為に大活躍をしますが、一方ロータリーの拡大の方はポール・ハリスやアーサー・フレデリック・シェルドン、フレツド・H・ツイード〈初期に入会し、健康で柔和、よく人を惹きつける驚くべき魅力を持った偉丈夫とポールの人物評にある人物〉その他奉仕と拡大に熱意を持った会員達の力によって、米国各地に続々とR・Cが創設せられて、ついに1910年シカゴ市で開催された『第1回全米ロークリークラブ連合会』の際には、16のR・Cから代表が出席して大いに気勢を上げることが出来たのであります。

シカゴ、ボストン、カンサス・シティ、ネブラカス州のリンカン、ロスァンゼルス、ミネアポリス、ニュー・オルリンズ、ニューヨーク、オークランド、ポート・ランド、セント・ルイス、セント・ポール、サンフランシスコ、シアトル、タコマ、バッファロー以上16のR・Cがそれであります。シカゴR・Cとは別個のロータリーの共同組織を作って、シカゴR・Cに巻き起ったゴタゴタを回避したということはチェスレイ・べリーの慧眼であったといわれています。ポールが彼の著書の中に記して、

『私をロータリーの設計者となす人があるならば、チェスはその施工者となるべき人だある』

といっているのは正にこの辺の事情を語っているというべきてありましょう。


次に登場して来るのはアーサー・F・シェルドンであります。

第2回全米ロータリークラブ連合会は、1911年ボートランドで開催されました。この大会にシェルドンは所用の為に欠席しましたが、友人にメッセージ を託して大会で発表するように依頼しましたところ、彼のメッセージが読み上 げられると万雷の如き拍手をもって迎えられるところとなります。『経営の科 学とは奉仕の科学のことを言う、すなわち、 He profirs most, Who Serves best( 最も多く奉仕する者に最大の報償がある〉』

今日に至るまで、ロータリーの職業奉仕の標語として生きている文句であります。

商売は他人に対する奉仕、社会に対する使命である。取引きは売り手と買い手の双方の満足が必要。

商売繁盛の真髄は信用の蓄積である。このシェルドンの提唱は我が国明治大正期の偉人渋沢栄一翁の『士魂商才』ということでありましょうか。

シェルドンの卒業したミシガン大学の経営学料は、従来からあった企業経営の理論に真向から挑戦した革新的経営理論を教えていたので、ミシガン学派と称せられていたといわれています。

企業経営は戦争である。戦争とは相手に勝つ為に行なうものである。従って勝つ為には手段を選ばない。されば、相手の弱身につけ込むことも必要であり、相手を叩きつぶす謀略もまた許されるべきである。

このような考え方が基本になっているのが正統派と称されていた。それまでの企業経営理論であるといわれていました。

これに対しシェルドンの理論は、企業は世の為人の為になってこそ存在価値がある。徒らに利己中心の儲け主義に徹することは、やがてその企業の衰退滅亡につながるものである。同業者との協調、社会的評価の信頻度が高くなって、その企業は長親繁栄を得ることが出来る、とするものであります。1911年のボートランド大会で、シェルドンの He profits most Who Serves Bestの提言は、大会決議委員長ジェームス・E・ピンカムによって、ロータリー宣言の最後に加えんとの提案となり議決されたのであります。

この後に、ミネアポリスR・Cの初代会長フランク・E・コリンズが演壇に立って、
『われわれは直ちに行動を起すべきである、自己の利益のためにロータリーに入会した会員は間違った会員である、ロータリーは利己の為のものではない、わがクラブでは創立以来一貫して採った原則がある“奉仕は自己ではない"Service not selfということである』Service not selfは余りにも自己犠牲的であり宗教的に過ぎる、ということからか、現在では

Service not selfとなっていますが、いずれにしても、ロータリアンがその職業生活に際して思考すべき標語となって、今日に至るまで67年間に亘って、2つの標語は生きつづけている訳であります。

ここのところの記述が少し長くなりましたが、1911年のボートランド大会は、ロータリー75年の歴史の中の大さな節目に当るのであります。

ポール・ハリスの著書によると、初期ロータリーのルネッサンスは1913年まで続いたことになっていますが、親睦の中から奉仕の心を会得するという『奉仕派』の姿勢は漸やく、全米ロータリアンの間に浸透しつつあったと見るべきでありましょう。

ロータリーの職業奉仕の概念を説く場合、前に述べた2つの標語のほかに、もうひとつ忘れてはならない論文があります。それは1916年サンフランシスコ大会で採沢議決された『職業人を対象とする倫理訓』Code of Ethiceであります。倫理訓は11ヶ条からなっており、文言は極めて程度が高いといいますか、純粋な高次元の理念が述べあって、箇条の中には宗教的な訓えに過ぎるのではないかと思われるような文言もあります。

そのせいでもありましょう。国際ロータリーの理事会では、これまで幾度となくこの倫理訓の取り扱いについて悩んでいるようであります。その経線は余り長くなりますので他日にゆずることにしまして、1978-79年度理事会では、規定審議会のこれを生かすべきであるとの決議をうけて、この11ヶ条の倫理訓の文言を部分改訂の必要ありや否や、元の侭の文言をもってロータリアンの関心を奨励すべきか否かを検討しているということであります。


ポール・ハリスのいうロータリーのルネッサンスが漸やく終末に近づいた1918年のニューヨーク州バッファロー大会は、その名称『国際ロータリー連合会』と称して開催されています。この名称変更は前年のミネソタ州ドウールス大会の時からでありますが、改名の理由は、1908年にカナダのウイニベックR・Cが設立され、1911年には英国ロンドンR・Cが誕生、アイルランドにもダプリンR・Cが設立されていたということから『全米』が『国際』と変ったのであります。なお、ポール・ハリスは第1回シカゴ大会において『全米口一夕リークラブ連合会』の会長に選出され、ボートランド大会までそのまま会長職を続けましたが、『国際ロ一夕リークラブ連合会』となったのを機会に、会長をグレン・ミードに譲り、自らは『名誉会長』に選ばれております。

バッファロー大会は、職業による会員の奉仕の在り方について、活発な議論が展開されました。その結果、職業理念についてロータリアンの信条とすべき文章を纏める必要があるとの提案が決議されて、その考案作業がアイオワ州のシウー・シティR・Cのロバート・ハントに命ぜられました・彼は全世界のロータリアン達からアンケートをとり、これを起草委員に諮って分頬整理し、簡素な表現とする作業にとりかかることになります。これが後に11ケ条の職業倫理訓になる訳であります。

世界中のロータリアンから、職業倫理に関するアンケートを集めたシウー・シティR・Cのロバート・ハントは、業半ばにして転任のためロータリーを退会せざるを得なくなり、後事を友人の牧師でシウー・シティR・Cの会員であるJ・R・バーキンスに託しました。

パーキンスは他の委員と共にアンケートの整理分類を終り、1914年のヒューストン大会に堤出すべく出発しますが、汽車の中で旧知のシカゴR・C会長ハーバート・アングスターに会い、彼からも助言を受けて5000字にのぼる原案を500字に縮めることに成功します。これを大会に提出しましたが、大会はこれを更に推敲すべしと決議しましたので、一年後の1915年サンフランシスコ大会に再堤出し、ここで『職業人を対象とする倫理訓』11ヶ条が採択されるのであります。

倫理訓11ヶ条は、本クラブ発行の『ロータリー入門』に全文掲載されていますので省略しますが、この11ヶ条の真髄を5ヶ条に縮めて日本文とした大連R・Cの古沢文作〈後に東京R・C会長となる)の労作を紹介することにいたします。

  1. 須らく事業の人たるに先立ちて道義の人たるべし、けだし事業の経営に全力を傾倒するは因って世を益せんが為なり、ゆえに吾人は道義を無視していわゆる事業の成功を獲んとする者に与せず。
  2. 成否をいうに先立ち退いて義務を尽くさんこと思い進んで奉仕を完うせんことを念う、自らを利するに先立ち他を益せんことを願う、最も能く奉仕する者、最も多く満さるべきことを吾人は疑わず。
  3. あるいは特殊の閑係をもって機会を堕断しあるいは世人の潔しとせぎるに乗じて巨利を博す、これ吾人の最も忌むところなり、吾人の精神に反してその信条を薫るは利のため義を失うよりはなはだしきはなし。
  4. 義をもって集まり、信をもって結び、切瑳し琢磨し柏扶け相益す、これ吾人団結の本旨なり、しかれども党をもって厚くすることなく他をもって拒むことなく私をもって党する者にあらぎるなり。
  5. 徒爾なる角逐と斗争とは世に行なわれるべからす、協力もって博愛平等の理想を実現せざるべからず、しかり吾が同志はこの大義を世界に敷かむがために活躍す、吾がロータリーの崇高なる使命ここに在り、その存在の意義またここに存す。
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